広島の有名人といえば、毛利元就である。
だけど、この人の居城は広島城ではない。
鯉城といわれる美しい城は、孫の輝元の1598年になって、完成を見たもの。しかも、関ヶ原の合戦後の1600年には輝元も広島城を福島正則に明け渡しており、イメージほど毛利と広島の関係は深くはない。
元就公とゆかりの深い城は、広島市内から北にある郡山にある。
54号線で県北に向かうバスに乗る。
揺られること、1時間ばかり。
JRの終点でもある可部を過ぎたあたりで、貸切状態になった。
緑の畑が続くのどかな風景が途切れると、
田舎にしては、瀟洒な造りの安芸高田市役所で下車した。
徒歩5分ぐらいで山のふもとに着く。
標高350メートル強の山頂に、郡山城は位置する。
登山道は、うっそうとした緑に囲まれている。
しかも、石垣など城というものを感じさせる遺稿は乏しい。
それというのも、輝元が広島城に入り、あちらが本拠となると、自然こちらは打ち捨てられる。
さらに、江戸時代に一国一城令がしかれ、また島原の乱後にキリシタンの根城になることを恐
創造力を巡らせないと、ハードなハイキングに終わってしまう山城をクモの巣を払いのけ、1時間ぐらいかけて、走破した。
山に入る前には、吉田町歴史民族資料館すなわち毛利氏関連の博物館を見学した。正直、元就という不出生の武将の歩みをもっと派手に紹介してほしかった。気持ちはわかるけど、安芸吉田の歴史なんて、よそモンにはハードル高いですわ。
今流行の歴女(城跡を巡ったりする歴史好きな女の子たち)たちも頬を膨らますに違いない。
ただ、安芸吉田はのんびりした風情のある町だ。
サッカーチームのサンフレッチェ広島が新年に必勝祈願に来る清(すが)神社などは、豪壮な感じで格好いい。
話題はそれるが、プロチームの祈願社寺って、少しかわいそうだと思っていた。だって、チームの成績が悪いとご利益がないみたいだもんね。別に神様の責任でもないのに。
暗黒時代の阪神は、兵庫県西宮の広田神社にお参りしていたが、幼心に「絶対ここはアカンのやろな」と思っていた。
さて、J1に昇格した広島は8月13日現在、7位と善戦。
ご利益のおかげか如何に。
ちなみに、巨人は宮崎市内の宮崎神宮、広島カープは広島市内の護国神社。ん、なんで全部神社なんだろか?
はたまた閑話休題。元就に関するこれといった足跡は、ここに思ったより少ないのだが、町の人はみなこの殿様が好きなようである。
あるお寺での話だ。
「昔は『毛利の殿様は~』とかお唄で、3つぐらいあった。盆踊りのときもそれに合わせて、踊るんよ」
そう、毛利の殿様は、今でも欠かせない存在なのだ。
ここから本稿の主役は、殿様から、先ほどの「ある寺」に移る。
郡山城を下り、市役所の裏の細い道を進む。
これは地元の人に聞かないとわからない。
(現に、迷ったので、道行くおかあさんにわざわざ案内してもらった。おおきに!)
小道から、堂々とした面構えのお寺が現れる。
ん、屋根の上のアレは何なんや?
白塀にちらと紋が見える。
これは、「ご朱印寺」の目印だそうだ。
江戸時代に、幕府がお墨付きを与えて、各種手形や手続きを代行していたという。その目印のために、ちょっとけったいで派手な屋根に相成ったというわけ。もちろん、お礼として幕府から扶持米をもらっていた。さらに、「公儀の待遇」といって、住職は大名と同じく、駕籠に乗ることができる特権もあったそうな。昔はさぞや大きな寺だったのだろう。
名前は清住寺という。ここからの話は、住職の奥さんの受け売りが大半である。
今でこそ、立派なつくりだが、戦後などはそれこそ廃寺寸前だったそうだ。
「屋根もボロボロで、雨漏りするから、お堂の中にバケツをいっぱい置いてたんですよ」
原子爆弾のキノコ雲は、安芸吉田でもはっきり見えたと先の吉田町歴史民族資料館の写真は語る。当然、戦後は物資難。お布施など期待できるものでない。しかもこのお寺は、ご朱印寺ということで、明確な檀家がいない。住職一家も誰がここを守るのか、ずいぶんもめたそうである。
それでも、細々ながら、元就公が戦の前には必ず拝んだ千手観音様を守ってきた。本堂の隣におられる仏様は、33年に一度のご開帳。とはいうものの、当時は損傷が激しく、胴体から腕を外して、安置しておくといった悲惨な状態だった。
このお堂で次に千手観音が拝めるのは、平成(?)38年という。
長生きせんとな。ちなみに、興味で聞くと、秘仏というが、保存の観点からは、やはり風通しが必要で、昨日もお堂は開扉したのだという。まあ、拙者は「秘仏」という響きが好きなので、17年後を楽しみにしたい。
「でもね、本堂の仏さんも立派なんよ。拝んでいきんしゃい。不思議なこともあってね…」
住職の奥さん(おかあさん)がいう。
戦後に、このお寺の復興がままならないときに、山本空外という偉いお坊さんが訪ねられた。「でもそんな偉い人が来られても、ここではろくなもてなしもできないから、『お引取りしてもらおう』と寺の者で言っていたんです」と苦笑いする。
しかし、空外先生は、「構わないですよ。立派なお寺じゃないですか」と本堂に上がり、仏さんに手を合わせる。それから、振り返って話された。
「奥さんにはこの仏さまから、金色の光が出ているのが見えますか?」
「はあ、私には何も見えないですけどねぇ…」
それから数年が経ち、おかあさんの息子が腕をも切り落としかねない重傷を負った。そのとき、彼女は一心に、暇さえあれば、本堂で念仏を唱えていたという。すると…。
「あのときは、初めて本気でお念仏を唱えましたよ。すると、仏さまから光が出ているのが見えたの。でも、周りに誰もいないから確認するすべもない。でも、ああ、これが空外先生が言われたものかとようやくわかったんですよ」
不思議なことに、息子さんの怪我も無事に癒えた。
それからというもの、高度成長も重なり、お寺もいい方向に伸びていったという。
本堂には、金色の阿弥陀如来の立像が黒光りされている。
拙者には、まだ金色の光は見えない。
寺には、空海以来の傑物といわれる空外先生の額が飾られている。
では、この空外さんとは何者なのか?
ここからは、空外記念館のHPの助けも借りる。
1902年に広島で生まれ、松山の高校に通っていたころに、「生きる意味」に苦悩し、勉学を続け、東大哲学部を主席で卒業。故郷に帰り、広島文理大(現広大)の教授となった。そこまではまだ普通の「お偉い先生」である。だが、1945年、生徒と待ち合わせをしていると、海田の駅で原爆が投下された。広島駅で待っていた生徒はすべて帰らぬ人となった。これに衝撃を受け、浄土教の僧侶として出家し、全国各地で念仏の指導をされ、2001年8月7日遷化された。
エピソードがある。1986年の東京サミットの際に、レーガン大統領は、お土産の品を問われ、「空外先生の書をいただきたい」と答えたという。だが、当時の中曽根首相以下の閣僚は「くうがい?」と誰もこの僧侶のことを知らない。あわてて、当時島根(空外は出家後、島根で念仏指導をされていた)の議員だった竹下登氏が、空外先生の書を用意したという。
メディアへの出演を嫌った先生は、日本より世界で知られた存在であった。6ヶ国語に精通し、書の腕前は、空海の再来といわれている。
空外老師に会うには、島根県雲南市の空外博物館まで足を運ばねばならない。
http://kugai-kinenkan.com/
しかも、この博物館は10月しかオープンしていない。
33年に一度会える千手観音、1年に1ヶ月しか開いていない博物館。仏の道はかくも辿り着き難きものである。
しかし、お寺のおかあさん、いい勉強をさせていただき、ありがとうございます。念仏というものの本質を垣間見た気がします。
南無阿弥陀仏…。