ハワイの風を(山口で)受けて~官約移民と宗教(2009年8月)

世はお盆の只中である。
そんな中で、我輩は「ハワイ」に行ってきた。
アロハを着たご老人に迎えられた。

広島市内からどれ、南西に70キロぐらいか。
山口県の周防大島に日本ハワイ移民資料館なるものがある。
これがまたいかす資料館で、400円を払う価値は十分ある。
雨上がりの農家の並ぶ道を上がっていくと、木製の気持ちのいいぐらい純日本風の建物が現れる。

上が入り口で、下は裏庭からみた感じ。
ここに住まれた方が、官約移民(政府の斡旋で海外に行った移民。民間が斡旋した自由移民と
受付のアロハ翁によれば、当時の金で3万円、今の価値で3億円)でブッ建てたそうで、まさに凱旋であった。

何を隠そう、私の大学での専攻は移民史(フィリピンの日系移民)だった。当然ところ狭しと置かれる資料に釘付けになった。

なけなしの知識を開陳しよう。
なぜ、山口の片田舎の島に移民が多かったのか。

ときは明治18年(1885年)、政府は外貨獲得のためと外国の最新技術の導入のため、先の官約移民なるものを募集した。外務大臣は井上馨である。いわずと知れた長州の大物政治家だ。そこで、山口の貧しい島の人を実験的に送り出した。行きの費用は政府持ちで、3年がんばってこいというもの。まあ、義侠心もあったと思う。パンフレットによると、官約移民は1894年まで行われ、計2万9084人が海を渡った。そのうち、1万424人が山口県人。その3分の1がここ大島郡(島のひと)出身。そこまでは先の理由からわかる。だが、山口より多く移民を出しているのは、広島県(1万1122人)なのである。アロハ翁はいう。

「広島でもここと同じように、沿岸部の人が多かった。広島の安芸門徒(安芸は浄土真宗が多い)は間引きをしないから、子沢山ということは知っとるだろう。さらに、ここらは幕末に四境戦争(長州を征伐しようと、山口の大島口、広島の芸州口など4ヶ所で行われた幕府軍の戦い)で疲弊したんじゃ。人が多くても、耕す土地も少ない。それで、広島も助けてやろうということもあったんじゃ」

安芸門徒の結束の強さが、海を渡るプラスのファクターに働いたこともあろう。

そんなこんなで、山口の大島の民らが夢を求めて、ハワイのサトウキビ畑に飛び出していった。移民が使っていたトランクなどが、当時の熱気を伝えるかのように、展示されている。

「ここには、横浜の移民資料館の方も来られたねぇ。これほど移民の資料がそろっているところはないから、お貸し願えないかって」

そこは拙者も行きましたよ!
JICAの運営する海外移民資料館で、横浜の赤レンガのすぐ近くにある。さすがに規模と展示の緻密さはこちらの方が勝る。ハワイだけでなく、ブラジルなど他国への移民資料も扱っている。唯一の不満は、フィリピン関係の移民資料がほとんどないことだ。(フィリピンは中国同様、戦後の排日の風がどこよりも強く、営々と築き上げた日系社会が一気に壊滅状態に追い込まれたことにもよろうが…)

http://www.jomm.jp/index.html

ついでにいうと、和歌山の日の岬にも資料館がある。こちらは、帰国した方が、アメリカ風のモダンな建物(ピンク色でペンション風だ)を建てられたので、「アメリカ村」と呼ばれている。

ただしである。当たり前の話だが、彼らはすべてが成功したわけでもなく、幸運にも財を成したとしても、戦争という悲惨な出来事に直面し、辛苦のときを生き抜いたのである。
そういう意味では、二重の意味で、この移民の歴史は、現代に受け継がれなければならないと思う。

1つに、日本が昔は他の国(アラブに集う人々のように)と同じく、外貨獲得のため、移民を奨励していたのである。
2つに、定住という選択肢を選んだ移民は、大半が戦争のため、苦労されたということである。

資料館となっている建物はもうすぐ100年というが、当主が台湾から輸入したという材木の香りが伝わってくる。

2Fの本棚に、目を引く資料があった。
移民社会における真言宗のハワイでの活動をまとめたものだった。(ようやくこのブログの趣旨にたどり着けた)

フィリピンでもそうだったが、移民の定住により、現地に日系社会が誕生すると、当然そこには宗教が必要となる。
異国での不安からの日常的な祈祷もそうだが、それより当然誰かが亡くなると、お葬式を行わなければならないからである。
書によると、はじめは日系社会のリーダー的な人が、その役割を果たしたらしい。だが、中には祈祷と称して、民を惑わす胡散臭い輩もいたという。

(参考までに、戦後の移民については、かの創価学会が教線を伸ばした。なぜなら、既存の仏教会は、太平洋戦争加担の念から逃れられなかったからである)

では、なぜそんな輩に皆がそそのかされたのかというと、当時の大島では犬神や蛇神を信じる人がいた。それを見よう見まねで行う人がいても、驚くには当たらない。しかも、ここは大師信仰に篤い土地柄で、島で生まれた中務茂兵衛という四国八十八ヶ所を280回(!)も巡礼したというツワモノもおられ、島内では江戸時代には周防大島八十八ヶ所札所めぐりが作られていた。それぐらい呪術的な真言の土地だったのである。

そこに、一念発起した真言宗の僧侶がハワイでお寺を始めたのである。あとの詳細は、立ち読みなのでご勘弁あれ。

移民と宗教の関りを知るには、良書であった。

中国新聞の記事で、こちらの資料館が苦労されているのが書かれていた。
http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/immigrants/trip/nov23.html
こんな面白くて、役に立つ資料館はない。心ある方は、足を運んでくだされ。

コメントを残す