「The Gate: A True Story」(2011年11月)(続)

よう、空石よ!

モラ坊瀧と「The Gate」を見てきたとのこと、天晴れ!さすがは、俺の真友の方々のうちでも、その行動力で天下にとどろく空石やな。素晴らしい!

それと、モラ坊瀧とは物理的に離れてしまい、彼もそれほど筆まめな人間ではないので、ときどきのポストカードやメールでしか状況が把握できないことが多い。なので、空石がこのように彼を連れ出してくれると、なんか楽しくやってそうやな、ということの一端が掴めるので、俺としてはほっとする訳やな。今後もよろしく。

それにしても、「Gate」(…なんど書いても、心経の最後の呪の『ぎゃーてー』を彷彿とさせるわ、この文字…)は噂どおりのドキュメンタリー映画やったみたいやな。安心した。まぁ、あの特設サイトを読んだときに、外れる可能性は極めて薄いとは感じていたが。

早速、おぬしがMattから聞いたGateオープンの意思決定に関することを、俺が最初に本映画を紹介された製薬会社研究所の部長さんに伝えたら、同じ話を、やはり彼も懇親会のときに聞いたみたい。が、その奇跡の連続のような物語の一部始終は言語化できないやろう、と彼も言うており、それが、今回の映画の中には間に合わなかった理由かも知れんわな。

: ) I, Enpyo, received and read your message at 00:46 11/11/14 月.  Thank you very much, M/M Kuseki さん.  Part of your message is quoted with |#|__ below:

|#|__原爆の火をトリニティーに返し、
|#|__負のサークルを閉じて、新しい輪を開くというくだりは、
|#|__いかにも仏教的で面白いな。
|#|__そんな発想、俺にはないわ。

確かに、我らはすぐには思いつかないわな。が、こう書かれると、仏教徒としてはかなり合点が行くな。縁/円を閉じて新しいものを開く。開いたもんをそっと閉じて、そこに争いなどが介在する余地がないというところが、無/空を下敷きにする仏教の怖さというか、パワーやと思うな。チベット密教の説話で言えば、地獄の最高神ヤマを調伏するために、智慧の文殊菩薩が明王系としてのヤマーンタカになっているときに取った戦略が、「円い(智慧の)鏡になる」、つまり、真言宗的に言えば、「大円鏡智」になる、というシンプルなものやった。それを髣髴とさせる。

|#|__何より、よかったのは監督と出演者の宮本僧侶が来ていたこと。
|#|__終わった後で、ささやかな懇親会を開いてくれた。
|#|__
|#|__例によって、こんな機会は逃さない。
|#|__俺とモラ坊瀧で、殊勝な市民を装い、いろいろ聞きだしてきた。

市民!!まさか、その奥にどす黒いパンク仏教魂が燃え盛っているとは、彼らも感じていなかっただろうて。でかした。宮本僧侶凄いなぁ。実施にTrinityまで行った坊さんやろ?なんか、身体に触れるだけで、ええ縁起をもらえそうやな。生き仏やで、一種の!

|#|__しかし、坊主が主張を掲げるでもなく、笑顔で進んでくるのを
|#|__みて、「やつらは敵じゃない」と
|#|__直感したらしい。そこで、黙認。GATEがひらかれたわけ。

まじで怖いわ、仏教。「主張を掲げる」ということ自体が迷妄で無知である、という、「主張をしない」宗教ってどないやねん?ということやわな。欧米のインテリがやられる理由がよく分かる。特に、大乗仏教の基礎たるナーガールジュナの空観をがっちり抑えた禅宗系やったら、なおさらやわな。熱すぎる法華系(特に新興宗教系の場合は)なら、もうちょっと主張が垣間見えるところやろうけど。

|#|__最後に、宮本僧侶とは名刺交換したぞ。
|#|__夏のデスバレーを歩いてきたPUNKMONKぞ。
|#|__ペットボトルを見ると、「あれはいいまくらになった」と笑い
|#|__飛ばすあたり只者ではない。
|#|__嫌がる彼を米国に送り「心配するな、骨は私が拾いにいってや
|#|__る」といった師匠もさすが。

すげえな、宮本僧侶!師匠もすげえな!これを読んで、千崎如幻老師とその師匠の釈宗演との逸話を思い出した。両名とも著名な禅僧なので既にご存知かも知れないが、蛇足を承知で書こう。

俺がUC Bereleyで知った、米国で3番目に大きかった日系人収容所(なんと、俺とモラ坊瀧が過ごしたWyomingのcollegeから車で5分程度のところにあり、一度訪れた)にて生活した著名人が、千崎如幻(Nyogen Senzaki)老師。米国臨済禅最大のパイオニアや。俺に仏教を深く勉強し、「仏教徒」になる機会を与えてくれた、大仏教学者のLewis Lancaster博士が禅を修行したのが、LA時代のSenzaki老師の元、「Floating Zendo」と呼ばれるものやった。で、その話をときどき授業でしてくれるのやが、彼と同じ生徒であったビート運動の鮮やかな面々(ギンズバーグとかケロアックとか)たちの逸話も含めて、とにかく面白く、この白髪・白ひげの穏やかな学者の内に秘めた凄いエネルギーを垣間見たものや。

で、俺も大好きな鎌倉の古刹である円覚寺にて、この千崎老師は、禅のトレーニングを受けた。しかも、釈宗演の元や。釈老師は、D.T.鈴木老師を「通訳」として携えてシカゴ万博に赴き、「禅とは何か」と題された講義で机の上に座禅を組み1時間。「これが禅です」で出て行ったという幻(クレイジー)な逸話で有名な人やな(通訳の必要ないがな!)。このsensationは米国を駆け巡り、でも老師は一言も発しない。当然、疑問は通訳の大拙老師の元へ。そしてこの当時はまだ禅林に「学生参加」だった大拙の英語力のえげつなさと表現の豊富さとによって、Zenが米国に衝撃デビューをしたという訳や。

そこまで考えていたとすると、釈老師は天才やな。円覚寺すげえ!しかも、千崎老師は鈴木老師とも円覚寺で会っているのだから、何かもうすげえ空間やで!

で、ようやく本題に入る。釈老師が、遥か以前にサンフランシスコから招かれて禅を教えてに行った際に、引き連れたのが、従来の禅メソッドに極めて懐疑的であり、決して「よい弟子」ではなかったはずの千崎老師やった(このチョイスが凄いわな!)。で、弟子の心中を察した老師は、帰国が近づくと、SFの大きな公園で、眼前のビル群を指差しこう言ったらしいわ。

「見てみろ、この偉大な都市を。お前がこの都市を打ち負かすか、それとも打ち負かされるか。試してみるか。わしに仕えること、帰国、共に義務ではないぞ。」

この、「骨は拾ってやるわ」的な励ましの言葉、禅家や思うわぁ。痺れるな。

|#|__和歌山田辺の福祉施設にいるらしい。私が1年に1度遊びに行
|#|__く白浜の近くやんけ。これも縁よ。

そのとおりやな!現場で働く仏教者。凄いな。ぜひ会ってみたいわな。

|#|__おぬしが帰省した際には、ぜひ地獄に組み込みたい。
|#|__しばしの会話を楽しみ、再会を約してきた。

ぜひそうしようや!楽しみやわ。

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