先に言っておく。前置きは、いつも通りとてつもなく長い。
ちまたは、オリンピック一色である。女子マラソンの野口みずきが、金メダルを取り、日本のメダルラッシュもここに極まれり。怪我を乗り越えYAWARAちゃんが金を取り、北島康介が平泳ぎで2冠。国民の一番関心の高かった(TVで言っていたのよ)女子バレーの大敗など、吹き飛ばすような快進撃をJAPANは続けた。そして、五輪の華である女子マラソン。野口がガッツポーズで競技場に現れる。ポーズはいいから、早くゴールしてくれと気が気でなかった。そして、遠く引かれたカメラの向こうで、さらに小さくなったトップランナーが先頭でテープを切った。
何かが終わった。この感覚は以前にも体験した感覚だ。そう、去年の阪神タイガースの優勝だ。最高の瞬間のすぐ後に来る寂寥感。期待していた感覚とのずれが、うれしさを微妙に侵食していく。これからのオリンピックはどうみたらいいんだ?砲丸投げの室伏にそこまでのドラマを期待できるか。(はじめは銀だったが、金の選手がドーピングで繰り上がりの金メダル。ある意味では、ドラマではあったが・・・)マラソン中継前、時機を逸してあさっての方向に独走していた「24時間テレビ」の杉田かおるの100キロマラソンの結末のようになるのではないかという不安が襲う。
奇しくも高校野球もハイライトを迎えていた。春優勝の愛媛・済美と白河の関を越えて優勝旗を持ち帰りたい南北海道代表・駒大苫小牧の優勝戦だ。試合は、逆転に継ぐ逆転で、結果は最後までわからない。そして、7回裏に2点差で駒大がリードした。しかし、まだ終わらない。最大の見せ場は、9回表済美の最後の攻撃に回ってきた。2死1、3塁で、大会屈指のスラッガー鵜久森が打席に立つ。渾身のスイングに、打球は高く、高くショートの頭上に上がった。ゲームセット。立ち尽くすナイン。
しかし、そこには、美しい脱力感があった。力と力のぶつかり合いの終戦。呆然とする打者に、仲間が軽く肩をたたく。負けたことは悔しい。いや、それすらも実感できないほど、彼らは完全燃焼していた。番組は、お決まりの大会ハイライトをエンディングソングとともに流していた。そこには、負けた男たちもいた。だが、その姿は、なぜか金メダルより尊く見えた。輝いていた。
そこには、金メダルにない果てしない物語が見える気がしたからだ。物事は、そんなにうまくはいかない。でも、甲子園で夢を見たんだ。そのほろ苦感に共感してしまう。92年に阪神が神宮球場で、野村監督率いるヤクルトの前に、最終戦で敗れた。優勝したら、「淀川に飛び込み!」と公言していた私は、水泳パンツを持って、皆とテレビにかじりついていた。しかし、その瞬間は訪れなかった。でも、みんな妙な一体感があった。「来年は川藤が、口説き落として清原を獲る」などとさっそく、あらぬ来季に向けての戦力補強について語り合った。ほとんど、みんな馬鹿だった。だけど、心の底から楽しかった。
次元がはまったく違うが、高校野球もそうだろう。試合が終わり、負けたものは、みな里に帰る。そして、ほとんどのものが、野球を忘れ、日常で再スタートを始める。しかし、ともに戦ったものの絆は忘れられないだろう。負けたからこその悔しさが、絆を強くするのかもしれない。その熱かった記憶が、友であり続けるあかしとなる。永遠に・・・。
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余韻に浸りながら、話は「友」のことだ。みうらじゅんといとうせいこうの奇才が、仏像紀行の第二弾「見仏紀2」を出していた。サブタイトルに『仏友編』とある。中身は、みうらといとうが、仏像を巡って珍道中をくり広げるというものなのだが、今回のサブテーマは、男の二人旅らしい。仏像というマニアな世界も2人のおかげで、キッチュな若者には、サブカルっぽく捕らえられるようになった。それは、HANAKOなどの女性誌にも仏像が散見するようになったことからもわかる。しかし、ちょっと待て。それは、あくまで女の子の間だけなのだ。男二人で旅に出て行く、ということは、少し怪しい目で晒されているといとうがいう。
「『結局さあ、男の二人旅っていうのが中途半端なんだよね。昔はあり得たのにさ』
みうらさんがつぶやいた。一体いつの頃から、男の二人旅が不自然になったのだろう。例えば、明治や大正の小説では主人公が男同士で旅に出る。そして、誰も彼らをホモだとは思わないのだ。この秘見仏ツアーでは、窮地におちいった男の二人旅を救い出すことをもテーマにしよう。」
確かに、われわれにもその感覚はある。昼日中に、三十路を越えた大人二人が、仏像を前にして、「こりゃ最高やな!なんか方便が溢れてるぅ!」とか「この不動明王の怒り顔クールやでぇ…」とかやっている様は、ホモどころか…やばい宗教?といらぬ嫌疑までかけられる。「友情からブームにしないと駄目なんだよ」と「マイブーム」の火付け役のみうらが言うう。最大のレスペクトを持って、言わしてもらいますが、見仏は、友情を深めるために行う訳じゃございません。あっしら、それを【修行】と思っているのでござんす。
なぜだか、知らねど仏に魅了されてしまったことは、故あってのこと。そりゃ、因果がなせるわざ。男二人には変わりませんが、それは「同行二人」と同じ意味合いで、空海さんやお釈迦さまとの旅であります。野を越え、山超え、その試練を分かち合う同志として、それを「仏友」と申しております。だから、恥ずかしいことなどございません。来るなら来てみろ、ってな心持ちです。(実際、我らが行く先には、若者など存在しないのだが・・・)志を同じくする二人を見つけるということは、ホント幸せなことです。甲子園で試合するのと一緒なんだってば・・・。
男二人旅が終わると、私はコースを振り返り、肉付けをしていく。関連の場所を訪ねたり、図書館で資料を集めたり、これも至福の瞬間だ。例によって、大阪府立中之島図書館を訪ねた。ある祈祷方法について知りたかったのだ。書庫から出してもらうのをためらったが、「呪術」という本を頼んだ。すると、もっと驚いた。なんと、貸し出し中だったのだ。もちろん、私はこの執筆のために参考にするだけであって、実際それを実用しようとは、露も考えていない。「この人はもしや・・・」と少し恐怖した。
その話を上方文化評論家の福井栄一氏(期せずして我ら二人の高校の先輩でもある)に話すと、「そんなん、全然驚けへんで。ネットでは、五寸釘の通販あるねんで」と涼しい顔で言われてしまった。
ホントにあった。(http://www.uni.ne.jp/jyu/)呪怨社とある。こんなん法人登記できるんか?ご丁寧に、壁紙もわら人形だ。なんでも2000年までに2400体の人形を販売したとある。「わら人形10点セット」には、わら人形・呪い釘・呪法マニュアルなどが入っているという。8800円がサービス中で、7800円だ。呪いの世界にもデフレがあるとは驚きだが、「届いたその日から儀式が始められます」とは、ギャグにならない響きだ。きょうもどこかで、五寸釘が打ち込まれていると思うと、あな恐ろしや。
では、あのわら人形に釘を打ち込むというのは、いつから行われていたのか?五寸釘の名所としては、京都の貴船神社が有名らしい。(幸いに目撃したことは、一度もないが・・・)貴船神社のHP(http://kyoto.kibune.or.jp/jinja/)によると、嵯峨天皇の御代に夫の浮気に狂った姫が、貴船神社に出向いた。「願わくは生きながら鬼に成し給へ。妬ましと思わん女を取り殺さん」と祈ると、「鬼に成りたくは姿を改めて宇治の河瀬に行きて三十七日浸るべし」と貴船の神のお告げがあった。それに、したがった姫は鬼になり、女と縁者、そして男とその親類を殺したという。そこには、五寸釘は、出てこないのだが、この話が陰陽道の呪いのために、木像や人型の紙人形に釘を打つという呪法が結びついて、鬼の形相に成り、釘を打つというスタイルになったものといわれる。
このようなおどろおどろしい話をHPで公開してしまうあたり、貴船神社の懐の大きさを感じてしまう。リコール隠しに奔走するどこかの自動車メーカーも見習ってほしいものだ。まあ、貴船神社のために付け加えると、この神社は夫婦仲を円満にする言い伝えもある。かの和泉式部が、夫の心変わりを悩んで、神社の巫女に相談した。すると、「敬愛の祭り」とやらの儀式を取りはからってくれた。しかし、巫女は和泉式部にもこれをするよう勧める。「恥ずかしい・・・」と式部はこれを断った。なんでも、この儀式は裾をめくりあげ、女性の大事な部分を神様に見せるというものだったのである。
そして、これを、のぞき見する不届きものがいた。これが、夫だった。その姿を見て、「いじらしい・・・」と思った彼は、式部のもとに帰っていったという。前述の話を考えると、愛憎は表裏一体ってとこなんでしょう。そして、貴船はホントに愛憎渦巻くこゆいスポットだということである。(前に行ったときは、そんなこと感じもしなかったんだけどね)これにて、前振りは終了させてもらおう。