東京国立博物館で「空海と密教芸術」と題された特別展示を妻、および5ヶ月の次男と見てきた。むろん、彼はほとんど寝ていたが、機嫌よく五大明王像などを拝み笑っていた。ええぞ、帝王学…。
なにより、東寺や醍醐寺にある、普通は拝めない国宝の仏像類がごろごろ来ていたのが行った最大の理由やな。特に、あの東寺の迫力ある五大明王の皆様!めったにお目にかかれない大威徳明王(牛の背に乗る「多足」な明王)を、東寺のそれと、妙に牛が可愛い醍醐寺のそれとを交互に見れるなどは、まぁこの手の展示の妙味やな。展示物のそこかしこで自然と合掌しそうになるので、注意しながら見ていた。
さらに特筆すべきは、弘法大師の直筆「聾瞽指帰(ろうこしいき)」の肉筆が見れることやな!彼が唐に渡る直前に、大きな野望と自負、特に、「道を外れたエリート」としての高らかな宣言を行う荒々しい筆致で持って書き記したあの書。15歳から空海に惚れまくった俺が、高校時代から米国留学前にかけて書き記していた「徒然ノート」とはレベルも質も全く異なるし比較するなぞおこがましくて身もだえするが、なんか、思わずそれを重ねてなぁ。あのときの大師の、「行って来たるでぇ、最新科学(=密教)を身に着けてくるでぇ、お前ら見とけ!」という勢いが、そのまま毛筆にのったかのような躍動感のある書が、「今こそ自分の原風景を見なさい!」と大師から示唆されているように感じ、いたく感動し、泣きそうになってもうた。横のばあ様が不思議そうに見てるのが分かったけど。
ちなみに、高校時代に世話になった「工作舎」出身の強烈な編集能力を持つタフインテリである松岡正剛のサイトに、とても上手に空海の若い時代を書いたものがある。ぜひ一読を。URLは以下:
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0750.html
「聾瞽指帰(ろうこしいき)」のはがきをお主に送ろうかと思っていたところなので、ちょっと待っておれや。
そういう訳で、ぜひ、「空海と密教美術」展に足をお運び下さい。皆さんが指摘するように、日本の博物館や美術館は高すぎますわ。米国や英国でただ当然、もしくは本当に無料で物凄いコレクションや工夫されたアトラクションに触れると、この国がどこまで文化活動に本気なのかときに疑いたくなりますわ。バブル時代のときに、ゴッホの「ひまわり」に100億円出すなら、その額を積み立てて、せめて首都圏や近畿圏の著名大手美術館などで半額ぐらいで入館できる措置を採るべきでしたね。お粗末なことです。
とは言っても、その限界の中で、東京において多くのまともな展覧会が催されることもまた事実ですわな。特に東洋美術などは。もっとも、日本画などはボストン美術館やメトロポリタンなどの方が優れたものが頻繁に出てくるという悲しい皮肉もありますけど。そういう不満があるためあまり行かないのやが、こと仏像・仏画となると思わず行ってしまう。数年前も同じ場所であったずばり「仏像」という展示。思えばあれ以降に、「阿修羅展」を経て、仏像ブームがやってきたような感があるな。
もし行くことがあったら、今回の展示では、第2展示室で登場する「明王」のうち、醍醐寺から来た五大明王らはその「影」に注目してくれや。正面から見てしまうと、その後に現れる東寺から来たものすごい写実的な五大明王らにひけをとる可愛さというか間抜けさがあるのやが、薄暗い室内でその影を見ると、醍醐寺の皆さんは火炎のゆらめきと併せて妙なる魅力を出しておる。この2寺から来た仏像群、特に明王たちは、「仏像」というよりも「立体曼荼羅」として捉えるのが密教業界の風習と思うが、何となくその理由が分かると思う。「それそのもの」と同時に「その写像(影)」が動き出すという辺りに、仏教の「縁起」の教えがほのかに見えへんか?深読みすれば。
仏像について熱く語るのはそれぐらいにしようか。止まらなくなるので。では。