同行多数は心強し(2024年3月・葛城修験)

 修験の集合は、辺境で絶望的に朝早い。京都にある最寄り駅は朝5時前の出発になる。
 朝8時過ぎにJR和歌山線の粉河駅に到着。修験装束の方と合流して、車で粉河寺に送ってもらった。

 この日は晴天。巨大な朱の山門が出迎えるてくれる。土産物屋の前に、もう参加者が集まっている。西国三十三カ所の3番札所。8世紀の創建という。本堂前には名高い庭園がある。薄緑の巨石がオブジェのように切り立っている。豪壮な造りは安土桃山の茶人かつ造園家の上田宗箇によるという。

 ここには来たことがある。あの寅さんも来た。スクリーンでは、門前でテキ屋稼業にいそしんでいた。下駄を口上と共に売っていた。「寅さん来たよね」と土産屋にたずねると、「そこに写真があるよ」と返ってきた。
 本堂で32人の参加者と読経。観音霊場で人も多いので、少し外れたところでの行となる。
 今回は友人Oと参加。私は2回目でOは初めて。同行には香川からという一団もおられた。「2時に車で出たよ」と高笑い。もしや寝ていない? 上には上がおられる。

 しばらくコンクリートで舗装された道が続く。寒さも遠のきはじめ、桜もちらほら。絶好の修験日和である。花井師が「今回は前より楽だと思います」とほほえんだ。前回はそれでえらい目にあったのでその手は食わんぞ(笑)と気を引き締めた。だが言葉の通り、なだらかな道が続く。Oは週末登山もしているので、へっちゃら。はじめは2人でああだこうだくっちゃべりながら進んだ。

 ただ油断は禁物。すぐ道なき道が現れる。道ではあるが、手入れされていない草木が伸びきって、行く手を阻んでいる。枝をかき分け進む。ときおり、前を行く人が払った枝が反動で身体をはたいてくる。頭上には舗装された道があった。「花井さんは道なき道が好きだから」。そんな声も聞こえてきた。

 志野神社が最初の目的地となる。まず法螺貝が響き渡る。「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前!」。いつもの所作で花井さんが九字を切る。我々素人は渡されたペーパーを見ながら、読経するが、勤行の順序が微妙に異なる導師がいる。背中を見ると、「熊野修験」と縫われている。葛城とは違う熊野方式というものなのだろうか。トイレ休憩を終え、一行は北にある第六経塚を目指す。

 前回同様、参加者同士のお接待は、身と心にしみる。先達は和歌山ならではの差し入れ。みかんはさすがの甘さだった。

 「第六経塚です」との説明があった。「昭和30年代に三井寺の修験者が探し当てたもの」と続く。「別にもう一つあります」とも。えっ、それってどういう意味? 「日本遺産 葛城修験」のコラムによると、第四番も2つ存在すると記されている。修験道は明治の廃仏希釈の際に一時衰退した。その過程で場所を移したり、所在地がわからなくなったりしたものがあったという。別ブログには「六番は3つある」ともあった。
 こちらかもしれないし、あちらかもしれない。「これだ」と決めつけず、並列にしておく。だから両方祈っておこう。厳しい中にもおおらかさもある。いい感じです。葛城修験は。   

 今回のコースは、初回に比べるとかなり楽であった。なので道中他の参加者と話す機会も持てた。話題には悩むが、無難なところは彼らの装備だろうか。修験の装いは機能的であることは間違いない。ただ、頭の頭巾などはどうであろうか。あの天狗がかぶりそうな黒くてちょこんと付いてるヤツ。強い日差しや雨を考えれば、頭を覆う遍路笠の方がいいと思う。そんな話をしていると、「モンベルでも作務衣や笠を扱っているからそっちはもっといいかもしれない」と教えてくれた。一応、そんな巷のことも知ってるんだと少し驚いた。調べると、麦わら帽子のようなオシャレな素材。雨になれば、カバーはオレンジやブルー。若者や女性の普段使いにもいけそうだ。作務衣までそろえているのには驚いた。アウトドア専門メーカーが、どうしてこの業界に殴り込んできたかはなぞである。

 Oは精神的な動機に興味があったらしい。前を行く参加者にたずねたところ「山から気をもらって、それを社会で返していく」との答えを得て、我が意を得たりの様子だった。ブログにも「山の行より、里の行」とあり、修行も大事だが、それを社会に還元していくことが山伏の本懐みたいなことが書かれていた。

 なんだかんだ話している間に、第五経塚も過ぎた。最後はだらだらと尾根道が続き、麓のまちも遠くに見えてきた。ただ当初のゴールには少し遠かったようだ。根来寺にたどり着く前に日が陰りはじめた。花井さんらも少し手前で解散を決断。参加者の車に分乗して、三々五々家路についた。