「導師」と「同志」

思い立ったら座禅である。
3月も近いというのに、滋賀ではうっすら雪も積もるほどの寒い日だった。
滋賀が寒ければ、京都も寒い。
ただ思い立ったのだから仕方ない。
鳥取のイベントでご縁をいただいた伊藤副住職のお寺、建仁寺にある塔頭両足院を訪れた。

参加者は多くなさそうだが、何人か集まるまで受付で足止めされた。
寒さに凍えていると、受付の女性が優しく「暖房が入っていますので、どうぞ」と通してくれた。
座禅会場なるものがよくわからなかった。
おそらく、この庭が眼前に広がる畳の間なのであろう。
ただ…
さっき「暖房が入っています」と言っていたのに、扉は開け放たれて、風が吹き込みまくりである。
それが、禅寺の「洗礼」というやつであろうか。
集まったのは6人。みな遠慮がちだが、相当やりこんでいるオーラを感じた。
足首の柔軟運動までされてる方もおられた。
隣の方は「山口から来ました」とこちらも経験者のようであった。

小生は久々の座禅で、ビギナーみたいなもの。
しかし、参加者は「結構長いことやるみたいなので」と悪気はないけど、おどかしてくる。
音もなく導師が現れ、「おりん」が鳴って座禅が始まった。

目の前の庭の木々が大きく揺れるほどに、寒風が広間に吹き込んでくる。
まずは寒さとの戦いである。
呼吸を大きくとって、身体をとにかく温めようとした。
すると、寒さは時間と共に落ち着いてきた。

次は身体の痛みである。
結跏趺坐でなく、半跏にしていたが、それでも老齢による身体の硬さで左足が痛む。
いいポジションはないものかと身体を左右に振るが、あまり意味はなかった。
45分だったかしら。「早く終わってくれ」とひたすら祈った。
ギブアップもよぎったが、誰も脱落する気配はない。
導師が足を運ぶ音が聞こえた。
2本目の線香をつけに行ったか。
ならば、まだこの倍の時間か…
うなだれかけた瞬間に、木バンを叩く音がした。
ようやく、痛みから解放されたのだった。

お茶室で参加者3人と導師で語らった。
導師は在家の人で、もとはアート系の仕事をしていたらしい。
考え方がとてもしなやかで柔らかい。

「無になるということは難しいです。まずは身体の変化を常に考えて下さい」

なんでもかでも無理に流すなということのようだ。
「おなかすいた」や「今何時かな」などは流していいが、
「今どこが痛い」とかいう座禅に必要なものは、積極的に向き合う。身体を動かしていいポジションを探すことは悪いことではないと言ってくれる。

ならばと質問した。

「ぼくらは45分だけ座ったけでしたが、座れば座るほど、コツはわかるというものですか」

「その通り」といわれる。
別の例を挙げ、「そうじのときのほうきの持ち方で、やり慣れているかどうかわかる」という。長時間庭掃除ををしていると、自然と楽なほうきの持ち方になるのだそうだ。
つまり、座禅もスポーツと同じ、技術の部分があるということだ。
身体の痛みなどは、初心者の悩みであろう。
ただそこを正面からクリアしないと次のステップに進めないということでもある。

参加者の方も興味深かった。
トレーナーをされているという女性は、あまり考えずに言われたままをやる選手が多いという。
それは、即座禅にもいえよう。
導師が「無になりなさい」といえば、「どこか違う」と思っていても無理に無になろうとする。
その思慮のなさが、禅を扱いにくいものにしているに違いない。
己の感性に正直に向き合えと。
和菓子を口に含みながら、合点がいった。

座禅のきっかけを参加者にたずねると、「オンラインから」という方がいてびっくりした。
導師も同意する。

「やっぱり、座禅は孤独です。一緒にやっているという感覚で続けることができるときもあるから、
その意味でもオンラインでみんなとやるということは、(お寺としても)ありですね」

確かに、一人だと「あしたやろう」とか「今は忙しいから」とかすぐいいわけできてしまう。
後日、別の僧侶に聞くと「僕もそれわかります」と笑っておられた。

まだ空は曇天である。
寒風吹きすさぶ京の禅寺で5000円。
実り多い時間であった。