禅僧の語る「戒」

高松にある禅道場「喝破道場」でハーブティーをいただいていると、外の雨が激しくなってきた。
野田住職にたずねた。

「曹洞宗は戒律が特に厳しいですね」

道元禅師は、食事のことにも厳しい規律をもうけた。曹洞宗だけは、僧侶が自ら畑を耕す。これは、権力を避けるために自活しようという考えからきている。家柄がよく権力の怖さを肌身で知る道元ならでは。先のハーブも住職が栽培したものである。

「お釈迦さんは肉も食べられていました」

不殺生戒ではなかった? お釈迦さんは、接待をしてくれた信者チェンダの供物に当たって亡くなられたといわれる。たまたま傷んだ肉だったともされる。お釈迦さんの時代の教団は、働いてはならなかった。なので、托鉢で食べ物を得ていた。それらは、絶対に選り好みしてはいけないとされていた。

「われわれも托鉢には、鉢の前に蓋を立てます。お供えいただいた食べ物を見てはいけないのです」

そこに野菜があろうが、肉であろうが選んではいけない。信者の心からの施しなのだから、肉もいただく。肉食が忌避されたのは、仏教が中国を経由してからといわれる。「三種の浄肉」という特別ルールもある。

 ①殺されるところを見ていない
 ②自分のために殺されたと聞いていない
 ③自分のために殺されたと知らない

上記3つの条件の肉は食べてよいとされた。肉食の忌避は文化の一端である。それが仏教に強い関わりを持つのは、伝承国の基層文化によるものだろう。それを回避するため、「浄肉」といういいわけを考えたのか。

ならば、そもそも戒そのものが、場所により変化しているのではないか。「高い床で寝てはいけない」とか「正午から食べてはいけない」という「戒」はどこかの忌避と結びついたもので、そもそもお釈迦さんの教えと関係がないかもしれない。住職はある禅僧の話をしてくれた。

「暖を取るために、仏像の腕を切って、燃やしたそうです」

これを絵にした「丹霞焼仏図」を江戸時代の絵師長澤芦雪らが描いている。人間は本質とは違うものをありがたがるというたとえだ。

江戸時代の仙涯和尚の禅僧「よしあしの 中を流れて 清水哉」という歌も紹介してくれた。

川辺に生える水草は「よし」とも「あし」とも呼ばれる。水は善悪を区別せず、平等に「よし」にも「あし」にも水を届ける。これがだめだ、あれがいいなどと既成概念にとらわれるな。 
家に帰って、住職が育てた破天荒にデカいしいたけをほおばった。

禅僧は戒からも自由である。