仏教徒の証しってなんだろう。
キリスト教のように、「啓示系宗教」でない仏教には、旧約・新約聖書のような教科書はない。
では、お寺に行くから仏教徒なのか。
そこに仏教徒としての信心は希薄に思える。
お坊さんを見渡す。出家する際には寺で修行する。
読経もすれば、座禅もするだろう。
ただ、われわれにはハードルが高すぎるか。
そんな漠然とした疑問を持っていたとき、円瓢との会話からヒントらしきものがあった。
滋賀とマレーシア間でのオンライン会議だったか、あるいは香川県で実際に会ったときだったか。
「知り合った中国系マレーシア人の仏教徒から、真剣度の高い仏教サンガに誘われて、新月の日に合わせて早朝から始まり、次の新月の日まで『八斎戒』を守るという在家修行に誘われて、参加している。」
「戒を守る」こと。確かにそれは在家の仏教徒である証しのような気もする。
ここで言う「八斎戒」とは、仏教でよく言われる「五戒」に、少々厳しい3つの戒を追加するものだ。
当たり前すぎる不殺生戒、嘘をつかない不妄語戒、アルコールを飲まない不飲酒戒などは広く知られるところ。その他に、立派な寝具では寝ない、音楽や歌舞の類に近づかない、など、一見よく分からん戒が加わることになるのだが、これらは、円瓢曰く、「生活の一部になるほど坐禅や瞑想修行をしていたら、その意味がよく分かるで…瞑想の深さへの邪魔になるのだ、音楽や快適すぎる環境はな」とのこと。
なるほど。深いな。小生も仏教徒を自負するならと、まずはトライすることにした。
八斎戒は一般的に、月に6回行う(これを「六斎日」と呼ぶ)。毎月8、14、15、23、29、30日である。日本では、平安時代から在家の貴族の間にも広まり、これらの日には京都をはじめ、殺生を行わなくなった地方が多いと言う。それらの日は、心を落ち着かせて、寺院へ参り、仏道修行に精を出すと言う日に割り当てられた。音楽も踊りも禁止だ。往来を牛車が忙しく行き交わないからなのかどうかは不明だが、これらの日には「市」が出るようになった。それらが、「蚤の市」などの「~市」や、「四日市」「八日市」などの由来になったとWikipediaにはあったはずだ。
さて、不殺生戒などは、案外簡単そうに見える。
だが、もちろん「人を殺さない」というだけではない。肉食がダメだ。プラス、夏は結構苦しくなる。
「ブ~ン」と、言わずと知れたあいつがところ構わずやってくる。でも、ペチンとやると殺生となる。
昔の僧侶は、これを守るために、うちわで蚊をあおいだとか。円瓢が参加するマレーシアのサンガでも、そのリーダーであるHong Bok老師は、「殺虫剤は用いないで、虫除けスプレーを用いましょう」と助言したらしい。
だが、一番きついのは「不過中食戒」であろう。なんといっても、だ。
正午から次の日の出まで食事しないという戒。
仕事で昼が食べれないということはたまにある。
ただ、1日3度食べていた人間が、昼で食事が終わりというのは実につらい。(ぜひ試してみてください。)
辛すぎて早く布団に入るが、これまた空腹なので、すぐには寝付けないのだ…。
本当に朝が待ち遠しかった。
学生時代に、インドネシア人学生と交流したとき、イスラム教徒のラマダン(断食)月であった。
この時期、イスラム教徒の彼らは、日が出ている間は食べてはいけないのである。
だから、日没になると、とにかく食べる、食べる。
断食月は食べないからやせると思われがちだが、人によっては逆に太ると聞いた。
日本人は関係ないので普通に食べていると、インドネシア人も思わずお菓子をパクリ。
とがめると、「しまった」という顔をするが、実は裏技が存在する。
無意識に口を付けたものについては、懺悔すればいいのだという。
あれはローカルルールだったのか、ジョークだったのか…。
昼から食べられないのなら、昼に思い切り食べて食いだめをしておこうと、どか食いしがち。
だが、生活リズムが狂ってしまう。これではなんのための持戒なのか…。
いかに、自分が食事に支配されていたかがわかった。
やってみるとわかるが、戒を守ることは大変なことで、実践する僧侶は本当に尊敬に値する。
そして理解した。これこそ仏教徒の証しではないか。
家族のルーティーンにもなりつつあると語る円瓢と共に、「戒からはじめよ」と誓ったのであった。
ゆるくなりがちな日本仏教の中に置いて、「持戒」の持つ意味を、MONK衆なりに考えて行きたい。
追記(円瓢)
円覚寺管長ブログにおいて、横田南嶺老師が「布薩について」のタイトルでとてもよいエッセイを書いておられた。布薩はパーリ語では「uposatha」と言い、まさに、我々が不完全ながらも日本とマレーシアで「六斎日」の際に実行している「八斎戒」の出家者バージョンに関わるものだ。
ここで横田老師は、「この布薩に注目したのは、佐々木閑先生が、この布薩こそが仏教僧団の生命線であり、根幹になるものだという研究をなされているから」と書いておられる。まさに、我々が「持戒こそが在家仏教徒の証」と書いた部分と呼応する。また、佐々木老師はその鋭く分かりやすい仏教哲学の説明に、MONK衆一同私淑する仏教学者であるため、我々も大きなYESをもらったような気がして励まされました。感謝、合掌。