浄土への回路~紀州路~(2021年5月)

山陰での寺巡りに味をしめ、進路をへき地へ取った。
滋賀を振り出しに、紀伊半島を海沿いに一周しようという計画。
車で約500kmになろうか。
高速道路を乗り継いで、まずは御坊市手前にある由良町で降りた。

海岸に続く白い岩肌が美しく、「日本のエーゲ海」なんてPRしている。
白崎海洋公園は自転車競技を描いたアニメ「弱虫ペダル」とタイアップし、
サイクリストの聖地になっているとか。

ただ目指すは寺である。
興国寺は臨済宗妙心寺派寺院。
鎌倉時代に宋に渡り、修行した心地覚心が開山。当時は西方寺といった。
暗殺された3代将軍源実朝を弔うため、家臣が出家して建てたのが始まり。
供養碑がある。
境内はきれいに浄められており、心地よい。
石畳の先にある本堂は、江戸時代の再建だが、東大寺の大仏殿を思わせる重厚さがある。

興国寺は尺八発祥の寺として名高い。
心地覚心が、尺八を宋で習い、師匠の弟子をともない帰国したとされる。
時代劇に登場する顔をすっぽり笠で覆った虚無僧の姿が思い浮かぶ。

寺の方に訪ねると、法要で地元の方が演奏していかれるという。
水上勉の小説に尺八を扱った「虚竹の笛」という長編作品がある。
彼が幼き時分、寺にいたことは知っていたが、
尺八を作る技術をお持ちとは驚いた。
中国にも足を伸ばし、尺八の旅が続いていく。
尺八を日本に伝えた男が、宋代に日本からの留学僧と現地女性の間に生まれたハーフという設定。
破戒僧の一休禅師との邂逅の場も設けている。
さらに、尺八の祖とされる虚竹を一遍らが広めた時宗の遊行僧とした。
心地覚心が寺を訪れた一遍に、印可を授けた話があり、
それらをもとにして、壮大な歴史絵巻に仕立てた。
小説家の想像力というものはすさまじい。

8月15日夜には燈籠焼という祭りが行われる。
受付のご婦人が言うには、
750年以上も続く祭りで、檀家らが紙で作った切子燈籠を持ち、夜の境内を練り歩く。
広場で松明に火が入ると、白い燈籠がくべられていく。
炎の周りは夜の闇。虚無僧が尺八を吹く。
僧侶らの念仏を粛々と唱えている。
さぞや幻想的な光景なのであろう。
ただ「コロナで祭りは縮小」と嘆いておられた。

そこから話は転回していく。
彼女は話し好きで、実に興味深い。
インドの結婚式に参加したときのお話。
「ゆっくり来てくれ」と言われて夜に行くと、
宴はまだ続いており、式は深夜まで行われたとか。
村によっては数日続くのも当たり前。
とにかくずっとやっているという。
式に惜しげもなくお金をかける愛知県民もびっくりというところか。
余談だが、昨今では愛知県民の平均結婚費用総額は、全国平均と同じくらいという。
まぁ年々、日本人の式が地味になっているのは確かであろう。
私はパキスタンで結婚式に出たことはあるが、厳格なイスラム教の国であることから
新郎新婦は男女別室でそれぞれ式を行う。
私は飾り気のない服装の男性陣の部屋に入れられた。
女性はというと、宝石と思われるきらびやかな衣装をまとい、別室に入っていく。
しかも彫りが深くて、俗にいう美人である。
鼻の下を伸ばして、部屋をのぞいた。
すると「無礼者!」と長老に怒られ、つまみ出された。
いわゆる旅の恥である。
これもお国違えばの話である。

初夏の気候に少し汗ばみつつ、興国寺をあとにする。
次に訪れた高山寺。
田辺の三偉人の両雄、
世界的博物学者南方熊楠と合気道の祖、植芝盛平の墓に手を合わせた。

ちなみにあと一人は、武蔵坊弁慶である。

田辺の町中に入った。
海沿いに植芝盛平記念館が建っている。
公的な施設も兼ねているのであろうが、立派な建物となっている。
植芝は世界100カ国以上で愛好される合気道を創設したことで知られる。

1883年に田辺で誕生。
館にはその生涯が列記されているが、それは合気道にとどまらない。
自身が会得した武道を「合気道」としたのは59歳のころ。
有能な役人がスタートである。
1912年の29歳で開拓団団長として80人を率いて北海道に移住。
北海道の遠軽(えんがる)への開拓は成功していたが、父の危篤で帰郷となる。
帰りの列車で大本教の出口王仁三郎のうわさを聞き、
父の病気の祈祷を依頼するため、本拠地のある京都綾部に。
そこで感化されて入信。
41歳のときには、王仁三郎と宗教王国を建設するため、満州に渡る。
中国の馬賊と行動を共にするなど、冒険活劇のような生活を送る。
敵に捕まり、あわや銃殺のところで九死に一生を得る窮地も経験した。
この時点で、どの大河ドラマの主人公より面白い人生だと思う。
巨人・王貞治に一本足打法を教えた荒川博が、
木刀で思い切り打ち付けても、70歳を超えた盛平を倒せなかったという逸話もある。
壮絶な人生は、1969年に86歳にして幕を閉じた。

来館者がいない割りには、なかなか凝った仕掛けがある。
合気道を体験できるコーナーがあった。
足運びを畳に写されて、目印に足を進めていけば、合気道の足さばきができるというわけ。
中腰になりながら、童心に戻り楽しんだ。
世界140カ国160万人の愛好者がいるというから、
気合を入れて作るべき施設であったのであろう。
ちなみに、私も大学では武道をやりたいと思い、合気道部を訪ねた。
だが、その年は不幸な事故があり、部員を募集していなかった。
30年以上前のことである。
それ以来の合気道との出会いであった。

田辺は海に近い。
だが木材業で栄えたのだという。
北には深い森が広がる。
近くに闘鶏神社がある。
弁慶の銅像があり、生誕地という。

水軍を率いる熊野別当の湛増の子と伝わる。
弁慶の生誕地は、出雲という異説もあるのだが…。

南に進み、観光地白浜を過ぎると、一気に田舎度が加速する。
紀勢自動車道の終点すさみ南ICを降りて、本州最南端のまち串本へ。
緑の植生が濃くなった気がする。
激しい雨も重なり、まちは陰鬱さを増しているように思える。
無量寺に着いた。

この寺はすごい。
長澤芦雪のための寺院である。
江戸期を代表する日本画家芦雪は、京都の師匠円山応挙から離れ、当寺で逗留。
新天地で自由闊達に筆を走らせた。
襖いっぱいに描かれた水墨画「虎図」が圧巻。
体を反らせて、にらみつける虎は迫力がありながら、どこか愛嬌も感じる。
面白い企みがある。
絵の裏に回ると、小さな猫が魚を捕ろうと水面をのぞいている。
そう、この虎は猫なのだ。
逆もまた真なりで、魚から猫は虎に見えた。
こんな酔狂な仕掛けをした画家を他に知らない。

芦雪は1754年に京都篠山に生まれた武家の子。
応挙門下には商家の弟子が多く、芦雪は異色の存在だった。
はじめは師匠の写実的な画風をなぞった。
才能があり、それらもうまかった。
転機は1786年。師匠が京都から串本の住職から依頼を受けたがそれを一番弟子の芦雪に譲った。
「一番の弟子を代わりに行かせる」と言ったとか。
本人は行きたくなかったのであろう。身代わりである。
ともあれ、それが芦雪の才能を開花させることになった。
「虎図」をはじめ約10カ月の滞在で、250以上の作品を残したという。
紀州の荒々しい自然が、奇才にインスピレーションを授けた。
油が乗った33歳の時分。
写実的で正当派の師匠から離れたのがよかったのだろう。
私は応挙の絵もそこそこ見たが、なんの印象もない。
師匠の作品もあるが、ここではかすむ。
「龍図」もいい。恐ろしさよりひょうきんさを感じさせる龍が体をねじらせ、
雲の間を流れている。

この寺の親切なところは、本物と別に、複製を当時置かれていた形で本堂に展示しているところ。
本堂に座すると、龍と虎がにらんでくる。
一粒で二度おいしい。
都心から遠く離れ、訪れがたい場所にあるが、岡本太郎も芦雪見たさに無量寺を訪れている。
苦労が報われる寺であることは間違いない。

雨は横殴りになって、傘が開けない。
串本を過ぎると、海岸に沿って大小の岩がそそり立つ橋杭岩がある。
こんな伝説がある。
弘法大師が天邪鬼と、一晩で串本の島まで橋を架けられるかを賭けた。
負けそうになった天邪鬼が、鶏の鳴き声で大師を諦めさせた。
そこで杭のみが残ったという不思議な話である。
弘法大師を小馬鹿にしているのか、それとも天邪鬼の才気を称えるのか。
なんの教訓を教えようというのか?
どこかでだれかが、なにかを伝え間違えたとしか思えない。
眼前で波しぶきが八方から襲いかかる。
得体の知れない鉛色の外界に飲まれそうになり、後ずさりした。
快晴であれば絶景の奇岩。
だが、荒れ狂う太平洋に向け、屹立する岩は崇高さをより恐怖を喚起する。

子どものころに、土産で買った物差しの図柄に橋杭岩があったのを覚えている。
30cmが計れるもので、ぼろぼろになるまで使った。
いつの間になくなったのであろうか。

最終目的地は、熊野にある補陀洛山寺。
NHKのブラタモリでも取り上げられていた。
境内にシュールな小舟が展示されている。
四方に朱の鳥居が立ち、真ん中に窓のない小部屋がある。

この小舟こそが、61歳を迎えた住職が海の彼方にある観音浄土を目指すために使われた渡海船。
補陀洛とは、サンスクリット語「ポータラカ」の音訳で観音菩薩が住まう浄土のこと。
30日分の水と食料を渡された住職は、船室に入ると、
脱出できないように外から板を釘で打ち付けられる。
近くまで曳かれていくが、そこから綱を切られ、黒潮に流されて外洋に。
死への片道切符である。
これでもまっとうな修行で、江戸時代の18世紀まで行われていた。
境内には名前を刻んだ石碑が残っている。

補陀落渡海(洛ではない)のことは、奇怪譚を集めた短編集で知った。
井上靖の「補陀落渡海記」では、渡海船に乗せられる僧の恐怖を描く。
僧は死を恐れ、決心がつきかねるのだが、村人たちは淡々と死地への準備を進め、送り出す。
だが、船が壊れたため、僧侶は小島に打ち上げられ、助かった。
しかしホッとしたのもつかの間。再び強制的に渡海させられるという背筋が寒くなる物語である。
井上が主人公とした金光坊は、実在の人物で境内の渡海上人の碑に名前が刻まれている。
ただ無残なのは、生き残った金光坊にはほかと違い、「上人」の贈り名が付けられていない。
井上はその後、彼の世話をした若き僧の話も紹介している。
彼は渡海を果たし、清源上人と碑に刻まれている。
師に接してきた彼は何を感じて渡海に臨んだのか。
あまりにも残酷だということからか、後年は住職が亡くなってから、水葬にしたという。

近海でヨロリという魚が捕れるという。
体が黒くて少しグロテスクな姿をしている。
黒が僧の衣を連想させることから、金光坊の霊魂が魚になったといわれる。
クロシビカマスのことで、漫画「美味しんぼ」103巻の和歌山編に登場する。

内田樹さんが「聖地巡礼」の熊野紀行で書かれていたが、
熊野は都心の寺社仏閣と違い、霊的なパワーが半端ないという。
補陀落渡海は、畏怖に対しての生け贄が反転して生まれた宗教的昇華といえよう。

救いのある話で紀行文を締めよう。
16世紀に日秀という僧が補陀落渡海を行った。
船は黒潮に乗り、浄土へと思いきや、琉球にたどり着いた。
命を長らえた日秀は、琉球に観音浄土を見出し、熊野信仰を広める寺院を建てたという。
奇しくも私はその寺院を訪れたことがある。
紀行文はこちらである。

当時の琉球がどうだったかは知らないが、南海の楽園と映ったのなら、
日秀にとっての補陀落渡海は無事成功したといえよう。