太鼓廻しから物語は続く。
また飛び込む話だ。
しかも今度は、高さ7メートルから飛び降りる。
もはや自殺やな…。
竿飛びといわれる。
こちらも行者の修行の一環である。
伊崎寺のその名も竿飛び堂から飛び出した16メートルの竿の先から、琵琶湖にダイブする行なのである。
なんのためにと問うのはやめよう。愚問である。
そこに飛ぶのに格好な竿があるからであろう。
観る方も一苦労だ。
お寺に問い合わせると、「抽選で当たればだけど、30人ぐらいしか船には乗れないからね」ときた。
当たればいいけど、外れれば…。
なにせ滋賀の近江八幡は家から2時間かけて行くところである。
「あ~残念」では悔しすぎる。
なんとかならんかと、ホームページをあさっていると、あったのである。奥の手が!
お寺とは別に渡船業者が船を出しているとのこと。
私は竿飛びだけでいいのだが、ツアーはご丁寧に湖に浮かぶ最大の有人島、沖島観光もセットになっている。
まあ3000円までなら…と思っていたが、なんと1200円ぽっきり!
こりゃお買い得とばかり、太鼓廻しに同行してくれた珍スポットマニアの先輩を引きずり込んだ。
10時に近江八幡の国民休暇村に集合。ロビーには50人はいただろうか。
ただ年齢層はちと高めで、われわれが最年少っぽい。
集合を確認すると、船着き場まで歩き、乗船。15分ばかりで沖島に到着した。
淡水湖に人が住んでいる島は、日本で唯一とのことで、結構珍しい島なのだそうだ。
周囲は6.8キロ。人のよさそうなボランティアガイドの方が、
足が痛いから「坂は上れん」とかいうレディをいなして島の観光地を回っていく。
それはそれで楽しいのだが、今弘法殿は、少し気が短くて、行けるなら、数多く観光地を回りたいお方。
ガイドに事情を説明して、途中離脱。コースにない沖島資料館を訪ねた。
改築された古民家に壺やらの民芸品が無造作に置いてあるだけだが、
公民館と兼務のおねえさんに話をうかがうとちょっと面白かった。
住民は約300人。小学校は1つだが、これが少し変わっている。
「近江八幡から船で通ってくるんです」
え、逆じゃないの?
「環境がいいから、島の学校に通いたいという親御さんがおられるんです」
へぇ、近代化がある意味歪曲して進んだ日本社会でも、わかったお方もおるんだこと。
狭い島とはいえ、滞在時間は1時間。駆け足で沖島を走破し、渡船に飛び乗った。
いよいよショータイムである。
先着していた方は、ライフジャケットを着ていた。
嫌な予感が…。
船頭さんは「ライフジャケットは限りがあるので、着てない人は外に出たらあかんで」と大声で説明した。
どういうことかというと、船は屋根がついた屋内と、わずかばかしのデッキがある。
室内だと、両側に窓はあるが、船の向きによっては、竿飛びが見えない可能性もあるということだ。
ご高齢とはいえ、乗客の一部は高級カメラを首から提げている。
あるご婦人などは、自分で作成したというお遍路の写真集を見せてくれた。
つまり、マジなのである。
だからライフジャケットがなかろうが、デッキに出ようとする。
すると、船頭は「危ないと言うてるやろが!」と容赦なく罵倒する。
だが、ご婦人も黙っていない。
「ケチ! ちゃんと見えるように運転しいな!」
ご老人と侮るなかれ。捨てるものがないご老人同士だからこそ、骨肉の争いとなる。
穏やかなゲートゴールで、悪口雑言が飛び交うのはこういう理由なのであろう。
肩を持つと、湖とはいえ、風があれば、波も立つ。
それを船頭さんは調整しているのだが、みなが竿飛びの方に一斉に移動すると、
バランスが崩れ、大きく揺れる。それを「しっかり運転しろ!」と言われる責任はない。
みながじっとしていれば、全部は見られないにしても、一定時間はゆったり眺められるものを。
個人のエゴが結集すると、全員が不利益を被る。
ご老人は善良なんて、そんな構図はこの船の中ではなかった…。
そんなドタバタが繰り広げられている間に、行者が竿の先から次々と湖に飛び込んでいく。
こわごわと竿を進むもの。こともなげにズンズン進むものも。
頭から飛び込んだ行者には、大きな拍手が起こった。
説明が遅れました。
この竿飛びの起源はまたも相応和尚です。
むかし、島だった伊崎寺は、湖を行く船から食料などをもらっていた。
それが証拠に、伊崎寺の本当の参道は湖側にある。
要は船でここに渡ってきていた証拠です。
それでもって、竿からひもを伸ばして鉢などに必要品を入れてもらっていたのを、
相応殿は自分で飛び込んでもらうようになった…ということらしい。
ホントに飛び込むのが、よほど好きなお人だったのであろう。
太鼓廻しでは太鼓の上から、そして竿飛びでは竿から。
またこれを修行の一環として包括してしまう天台修験も恐ろしいものぞ。
10人ぐらいが飛び込むと、自然に船が離れていって、終了の雰囲気となる。
12時過ぎにはお開きとなるが、お寺で法要はまだ続くというので、のぞいてみた。
お庭を清めていた笑顔が印象的な庵主さんに声をかけると、気さくにいろいろ教えてくれた。印象的な話があった。作為というお題だ。
修行については、自分で勝手に決めてはいけないこともあるという。
修行中に足を痛めたある行者が、草履の結び方を工夫して、オリジナルで結んだという。
それを見た大阿闍梨は、「なぜそんなことをするのか?」と問いただしたという。
結びをもとに戻したのだが、自己流がたたってか、より痛みがひどくなったそうだ。
「だからなん百年と続けられてきたことは理由があるので、勝手に変えたらダメということなんです。
草履の例で言いましたけど、千日回峰行も同じなんです。ちゃんと伝えられてきた通りにやれば、できるんだそうです。それをしんどいからとかで、勝手に変えると、おかしくなるそうです。
こちらは命にかかわることですから、みなさんは絶対自己流なんかはされません」
個性的がもてはやされた昨今だが、それは残薄なものと、大阿闍梨は鼻で笑っている。
ちっぽけな一生を凌駕するうん百年の歴史に、まずは頭を垂れよとのたまわれている。
それが竿飛びなのかもしれない。
実は、この竿飛びは昔は一般にも開放されていて、度胸試しにも使われていたという。
しかし、悪のりした一般人が、隠れて竿に上り、ダイブを試みて、失敗。亡骸になってしまわれた。
この事故から、行者のみがこの行を行うことになった。
このことなど、先の庵主さんの話の好例であろう。
話はまだあった。
以前に仏友とここを訪ねたとき、さまざまな疑問が生じた。
その回答ももらった。
どうやって千日回峰行に挑戦できるのか?
「それについては、京都に阿闍梨講というものがあるんです。
そりゃ本人の意志が尊重されますけど、彼らがイエスといわないとことは進みません。
だから本人も含めた段取りがあるんです」
なるほど、勝手に「やります!」だけではダメで、用意周到に周りも説得していかないといけないことがわかった。
話している間にも法要は始まっており、われわれは多少の時間を知らずにスキップできたことになる。
要は、足が痛くなる時間が減ったということ。
申し訳なさそうに、後列に加わり、またも大阿闍梨さんのありがたいお加持をいただいた。
数珠をポンポンとやっていただくやつね。
そして帰りには、お接待として、果物やお稲荷さんをいただいた。
心も体も満腹である。
それにしても近江は、けったいな祭りが多い。
だからこそ面白い!
伊崎寺
近江八幡市白王町1391
JR近江八幡から近江鉄道湖国バス・堀切港下車徒歩15分
☎0748-32-7828