郡上には、1度行ってみたかった。
なぜって?
聞くも野暮よ。郡上踊りを見るためゾ!
なにがスゴイって、この踊りは7月11日からはじまって、
9月5日まで約2カ月もの長きにわたり、行われておる。
お盆の8月13日から16日はクライマックス!
徹夜踊りでは、夜の8時から朝の4時ごろまで踊り倒す。
まさにサバイバルダンス!
踊る阿呆の阿波踊りもあきれかえる狂気が、郡上で渦巻くのだ。
それでもって、13日の徹夜踊りに乗り込んだ!
この踊りは実に楽しい。
昔風情あふれるまちの一角に、櫓が組まれ、
ピーヒャラと、太鼓や歌い手が音楽を奏でる。
それに合わせて、老いも若きも、県外旅行客も外国人観光客も踊り出す。
狭い通りで行われるものだから、見物人は両脇の建物に追いやられ、
物の怪に憑かれたようなボンダンサーが、通りを占拠する。
写真を撮っていると、
「邪魔や! どけ!」とばかり、衣装をそろえた粋な浴衣衆にどやされる。
雨が降ってもお構いなし。
着物が濡れても、汗と変わらんとばかりに、踊る、踊る。
頭に装着する笠を着て、一心不乱に踊る準備ものもおる。
郡上踊りは、見るのではなく、参加するもの。
体が勝手に吸い込まれ、気が付けば、踊っていた。
麻薬のような臭を放ち、見るものをすべて取り込んでゆく。
こんな恍惚感あふれる2カ月が、蒸し暑さが残る郡上で続くのだ。
郡上踊りの紹介をいたしたが、主題をしばしお寺に移させていただく。
踊りの予習のため、郡上八幡博覧館を訪れた。
しかし、踊りの最終実演の時間に間に合わず…。
と思っていたら、そこに来たるは、タイからの観光客ご一行さま。
どこに行ってもいるんだね。外国人観光客は。
当然のごとく、彼らのために、名人のような着流しの方が出てきて、
懇切丁寧に実演してくれました。
われらもおこぼれに預かることができたわけ。
タイ人よ、おおきに!
郡上踊りは、中世の念仏踊りに端を発するとされる。
現在の形になったのは、江戸時代という。
藩主が領民の融合を図るため、踊りを奨励したことによるという。
「かわさき」や「春駒」など10曲が、メビウスの輪のように無限循環する。
曲の間に休みがある。あるにはある。というのも、それはわずか数十秒。
すぐに次の囃子が始まる。
地元の人に聞けば、朝4時まで踊った踊り隊は、死んだように眠り、
夕方にまたゾンビのごとくムックと起き上がり、また踊り始めるという。
すさまじいまでの〝踊り愛〟である。
その博覧館に、凌霜隊(りょうそうたい)を紹介するコーナーがあった。
初めて聞く御仁が多かろう。当方もそうでござった。
説明によれば、彼らは明治維新のときに編成された約40人郡上藩士という。ときは1868年、いわゆる明治元年である。
小藩・郡上藩主は悩んでいた。東上する官軍に味方すべきか、それとも江戸幕府の恩顧に応えるべく、官軍に抵抗する会津藩に組すべきか。
そこでとられた策が、妥協の産物であった。
国もとは官軍に従い、江戸在住の藩士の一群を会津に向かわせる。
二枚舌作戦である。
江戸で編成されたのが、凌霜隊であった。
戊辰戦争では、かの白虎隊とともによく戦った。
彼らは、会津藩により、しんがりをつとめさせられた。
当初、凌霜隊は栃木県の那須塩原に駐在していた。
しばらくは戦闘もなく、領民らと仲良く過ごしていたという。
このとき、郡上踊りも披露された。
しかし、牧歌的な光景が一変する。
会津藩の指令で、官軍を迎え撃つため、「会津若松に合流せよ」と。
さらに「官軍に食料などを残さぬために、まちを焼き払え」とも言い残した。
凌霜隊は悶絶した。
「お世話になった塩原のまちを焼くことはできない…」
だが、指令は絶対である。
村人に事情を説明し、泣く泣くまちに火を放ったという。
ただ、まちの菩提寺でもある妙雲寺だけは…。
そこで苦肉の策を実行に移す。
薪を焚いて、建物に火を放ったように見せかけた。
そして、念には念を入れた。
本堂の天井にあった菊のご紋に、バッテンを打っていったのだ。
つまり、官軍の象徴である天皇の家紋に墨を塗ることで、
焼き払ったと同じ措置であることを示した。
この英断により、妙雲寺は今にその姿をとどめる。
今でも、その痕跡は、天井に残されているという。
それでは、その後凌霜隊はどうなったのか?
戊辰戦争が終わり、生き残りの隊士約30人は郡上に戻された。
藩のために戦った彼らに着せられたのは、無上にも反逆者という汚名。
お国のために、命を投げ出した20歳前後の若者は、故郷で幽閉の身に。
ここで立ち上がったのが、さきの妙雲寺の住職ら。
臨済宗の本山である京都の妙心寺に働きかけ、
郡上の同じ臨済宗の慈恩寺を動かした。慈恩寺も、周辺の寺にもちかけ、
彼らはようやく幽閉の身から解かれた。
だが、新政府は彼らを雇用するわけにもいかず、
彼らの行く末は、恵まれたものではなかったという。
ただ、隊長であった朝比奈茂吉は、父親ゆかりの地である彦根にわたり、
彦根家老椋原家の養子になり、1889(明治22)年から近隣村の村長をとめたという。
墓は、故郷の郡上になく、彦根市内の蓮花寺にある。
悲しい歴史でもある。
あるブログで凌霜隊と塩原が、ときをへて、つながったことを知った。
有志により、郡上踊りが、那須塩原で披露されたという。
心優しき凌霜隊のDNAが、塩原で息を吹き返した。
郡上は町歩きが楽しい。
中心地を外れると、小駄良川という小川沿いに、大乗寺がある。
山に守られるように、立派な山門がそびえる。
日蓮宗のお寺ということで、鬼子母神も祀られている。
「鬼」の字は、頭の〝角〟が取られている。
東京雑司ヶ谷の鬼子母神と同じである。
ここの見どころは、帰り道にある。
山門越しに少し目をこらすと…。
司馬遼太郎も「日本一美しい山城」と絶賛した郡上八幡城が、白く輝く。
さらに、郡上踊りでもう1つ。
こんな言い伝えがあるという。
太平洋戦争中、全国の盆踊りは「不謹慎なもの」として、
禁止されたものが多かったが、郡上踊りだけは、一晩に限り、許可されていた。
そして、1945年に玉音放送により、終戦を迎える。
さすがに、この年だけは、自粛が促された。
しかし、郡上の血が黙っていなかった。
自然発生的に、有志により、踊りが行われたという。
東大寺のお水取りを「不退の法」と呼びならわすならば、
まさに郡上踊りは、「不退のダンス」といえる。
大乗寺
岐阜県郡上市八幡町向山389
長良川鉄道・郡上八幡駅から徒歩約20分
電話0575-65-3439
まだ行ったことはないが…
妙雲寺
栃木県那須塩原市塩原665
電話0287-32-2313