博多で友人に会うと、面白いことを言う。
「みんな、ラーメン、ラーメンっていうけど、俺がホントに旨いのはうどんとよ」
そんなん聞いたことない、と思いきや街を眺めると、意外にもうどん屋が多いのである。
関西人が、「どこのお好み焼きが旨いん?」と聞かれても、毎日食ってるわけでもないのに知るか、アホ! ってなもんか。
本題は、博多にある福岡市博物館です。
これが建物の形状から味わい深い。
写真で見ると迫力がないけど、威圧感満載のイスラム門がお出迎えです。そしてこんな催し物をやっていました。
『日本最初の禅寺 博多*聖福寺』とあります。
門外不出はいいけど、聖福寺とはこの博物館からすぐのところにある。
「ちょっと借りただけちゃうん」と期待はしていなかったのですが、
ところがどっこい、その予想は見事に裏切られた。
まず説明すると、聖福寺というのは、博多にある名刹で、1195年に建てられました。臨済宗を開いた栄西が開祖で、日本初の禅寺でもあります。
展示は、寺宝とともに、お寺の栄西らのお坊さんにも触れています。ただここと隣にあった承天寺にいたお坊さんというのは、布教のほかに特殊な役割も果たしていました。
栄西をはじめ、承天寺を興した日爾(聖一国師)らは、寺に住持しながら、ときに中国に渡り、日本の代表として、貴人との交流を深めます。湖心というお坊さんは、1538年に大内義隆の遣明使の正使として明の世宗にも接見したといいます。そのときもらったお土産が本合子(フタのある器)。細かい螺鈿がほどこされた逸品が展示してありました。
彼らは外国語や異国の儀礼というものに通じているから、権力者としてもこれを使わない手はない。
時代がそこから下れば、朝鮮との交渉でも大きな役割をになうことにもなる。彼らは外交僧でもあったのです。
そんな日本と異国をつないだ僧侶の記録が、この展示の核となっています。
昔の博多は、もっと海が迫っていたらしく、聖福寺のすぐ西は港だった。そこには日本人とともに、宋人居住区があった。彼らは何をするかというと、お商売です。
平清盛も大輪田泊(神戸)で日宋貿易を本格化させようと、
博多の宋人を連れてきて、後白河法皇を会わせたほどでした。
彼らには財力があった。
彼らは栄西らのパトロンになるのです。
そりゃ、日本の代表にくっついてりゃ、利益もでかくなるというもの。聖福寺も承天寺も宋人の財で作られました。
どころか、中国のお寺で木材が必要になると、それを融通する謝国明のような長者 も現れたのです。
いわばこれらのお寺は、貿易の前線基地でもあったわけです。
ちなみにドデカイ基地でした。今は規模縮小らしいですが…。それでもまだデカイ。
まず、聖福寺です。
都会とは思えない、静寂が支配しています。さすが初の禅寺!
立派な神柱が、仏殿の仏様と結ばれています。
そいで、道路を隔てて隣の承天寺。ここもデカイです。
禅寺って、リンってしてるでしょ。ただお坊さんとかまったくいないので、何の話も聞けませんでした(涙)。
ただこの2つのお寺は、今の日本にも立派に足跡を残してるんです。まず、聖福寺ですが、ここから宋に出発した栄西は、
『喫茶養生記』を著わしています。宋のお寺では健康法として喫茶の風習がありました。それを日本で広めたんですと。鎌倉3代将軍の源実朝が体調を崩したときに、お茶を差し出し、ありがたがられたそうです。
その種を持ち帰り、聖福寺でも栽培したというのです。
このあたりかしら?
そして、承天寺です。
こっちは、円爾さんがうどんとそばを伝えたと言います。
寺内に何もなく、あまりに不親切のため発見できなかったですが、その碑がデンと建っているそうです。
さらに饅頭の祖でもあるといいます。
博多で托鉢をしていると、茶店の主人・栗波吉右衛門が厚くもてなしてくれました。そこで円爾さんは、宋から持ち帰った饅頭の製法を教えたと言います。ここの屋号が虎屋。
そう、今やパリにも店を構えるかの虎屋の発祥ともいうわけ。そのとき円爾が書いてくれた看板が、今でも虎屋に大切に保管されているそうです。
ここで、冒頭の話に戻ります。
承天寺を出ると、「中世博多うどん」なる店がありました。
名は中世ですが、おそらく立派な平成生まれです。
ボリューム満点で、ごぼ天が最高に旨かった!
そしてお茶もすすり…。
うどんとお茶を伝えてくれた栄西&円爾さん、サンクス!
聖福寺
福岡市博多区御供所町6-1
地下鉄空港線・祇園駅から徒歩5分
承天寺
福岡市博多区博多駅前1丁目29-9
地下鉄空港線・祇園駅から徒歩5分(聖福寺は道路をはさんでお隣)