せっかくのお寺への巡礼、普通に行けばよいのに、何故わざわざ苦しい思いをするのか、こいつらは?理由はありそうで、ない。あえて困難な山寺を幾日もかけて厳選し、辛くても1日以内での帰還を目指す。しっかりと食料を備蓄することをお忘れなく。でも、しすぎるととても重たくていきなりキツイ。ほうら、もう世俗の矛盾を感じ始めた。それをふっきるために、聖なる山を目指して我々は先を急ぐのだ。
急坂を登りては疲労し、野を駆けては転げ落ちる。最初は饒舌なメンバーの会話も、気が付けば息の上がった溜息ばかり。あれほど高かった日は遥か昔に沈み、雨が降る中遠くに落雷さえ見える。果たして文明世界に帰れるのか不安になり、主催者の2人が「バカ2人遭難」のスポーツ紙の大見出しを陽炎のように見始めた頃、我らは街の灯を見つける。必ず見つける。絶対見つける。でないとこのサイトは閉鎖だ。そして仏のご加護を再確認し、微妙に英雄的な心持ちになってしまう。そして乾杯!
だから地獄はやめられない。
しんどくても、辞めない。焦っても、諦めない。それが地獄。それが大乗仏教徒の心意気(ほんまか?)途中で後悔するかって?ううん、スタート地点から既に後悔してる。これもまた定義の一つかも知れないな。いつもギリギリ。計画には決して余裕がない。たっぷり時間をとっても、必ず裏切られる。誰に?自分に。てめえらでどんどん暴走するから。楽しそうな枝道にどんどん外れるから。だが、日が沈み道半ばであることを確認するときも、我らから笑顔は消えない。「俺らは変わらんなぁ…。」むろん諸行無常なのだが、それを分かった上での「不変」の認知が心地よい。
いつも入り口と出口が違う。バス停も電車の駅も、何故か行きと帰りが同じになることはない。さぁ、ここで、正式な「地獄ツアー」のコンセプトを述べてみようか:
1) 選定に時間をかけ、人の行かぬ奥地の聖的ゲニウスロキ地を
2) ジジイになっては行けぬ、やれぬ、考えられぬ →若者、今!
3) 行きと帰りは違う道を通ること(時間ぎりぎりは当たり前)
4) 出発直前と直後に、アルコールで体を清めること(後、廃止)
5) 楽な道は無視、できるだけ険しく、苦しい道を選ぶこと
6) 巡礼途上で出会わされた意味深なスローガンを1つだけ選ぶ
7) 1話ごとに、時系列の紀行文を「地獄記」として諸仏に献上
8) かなり近い将来に「地獄記」を出版するという野望がくすぶる
9) テーマソングはQueenの「地獄に道連れ」