お盆休みを利用して白浜を旅行した。いや正確に言うと、白浜の隣町である和歌山県西牟婁群上富田町の嫁の友人宅にお邪魔させていただいた。
大阪から高速を飛ばして2時間強。意外に白浜は近い。「なんぞしたいことはあるか?」と友人のおやじさんに聞かれ、何気なしに「釣りでもしてみたい」と言ってみたのだが、田舎の親切というものは容赦がない。到着するなり、濡れるとダメなのでと、競艇場で売られているようなおじシャツと長靴を用意された。一応都会から来たのに、このファッションでは地元民からも馬鹿にされそうなダサさだ。「地元の人とも話したい」とも言っていたら、おやじさんは、わざわざ釣り仲間まで呼んでくれていた。しかし、このオッチャンの言うことの半分以上が理解不能。向こうはさぞかし私のことを無愛想な奴と思ったに違いない。すみませんでした。さて、着いた。白浜の千畳敷という海に突き出した釣り場に、カップルや家族連れと一線を画した重装備で突き進む。
クソ長い紀州竿なるものを、何度も海に放り込む。もちろん、様になんかなっていない。無邪気な観光客が「何が釣れるんですか?」と尋ねてきたが、お茶を濁し、心の底で「ほっといてくれ。俺は釣りなど知らない哀れなビギナーなんじゃい!」と白浜の中心で叫んだ。感傷的で物憂げな夕陽が落ちると、足下は真っ暗で何も見えない。だが、ほんまもんの釣り人はあわてない。頭につけるライトを取り出し、それでエサをまさぐる。月夜が釣り人を熱くする。私はただそれに従うだけ。オレは初心者だってば!
時間が経つにつれ、波が強くなっている気がする。蛍光の浮きが激しく波間に上下し、闇夜にそれを見ていると、引き込まれそうで、アタマがクラクラ。陸にいるのに船酔いしてきた。なんとか、ビギナーズラックでグレなる小魚を仕留めたが、万事休す。家に帰ると、一杯のアルコールで、夢の底へグーグー。都会っ子の面目躍如であった。
ハードワークで夜はぐっすり。久々の熟睡でお目目もパッチリ。うれしくて、犬の散歩までさせてもらった。さあて、本題はここからである。
「有名でなくてもいいから地元のお寺に行きたい」
これこそが、唯一無二の私の希望だった。(申し訳ないが、ハードフィッシングを堪能しに南に来たわけでない。ただ、好意には多謝感激であった。ありがとう!)そこで、自分で見当をつけておいたのが、おそらく地元民しか知らない救馬渓観音。家で見たHP(http://www.sukuma.or.jp/)が気にかかった。コンテンツに、「山伏修行グループ『雄山講』」とある。アースウインドファイヤーもどきの軽快なBGMのページには、「講員募集」とある。修験道なるものの本質を聞かせてもらおう。淡い期待を胸に、我々は救馬渓へと車を走らせた。
遠方から、舞台造りの骨組みの上にお堂が見える。ただし、舞台作りは鉄筋だ。お寺の入り口には、しっかと青銅の役行者さんが高下駄を履いて、我ら3人を見下ろしている。他に参拝客の姿はない。
嫌がるおなご衆をなだめて、本堂に。お堂は、巨岩から飛び出たように造られおり、修験の匂いがプンプンだ。気もそぞろに、寺務所をのぞくと、大阪弁の住職がポツリ。この人こそ修験の講員募集の張本人か!喜び勇んで、いろいろ話を振ってみたが、「今は休業中なんです」と幾分肩すかし。「また、HPにあるように奥駆けするなら、声をかけて下さい」と言付けて、ひとまず元修験の道場であった裏山へ。
今では整備されて、子供向けのハイキングコース。道は厳しくないが、恐怖の浮遊物がいる。そいつは、深い森をうるさいぐらい乱舞する。枝から枝へ。私は生涯でそいつがそんなに暴れる様を見たことがない。黒い弾丸が、重低音を伴って頭の上を交差する。そしていや~な予感。バチッ!顔面にヤツが特攻してきた。体が反り返った。「み~ん、み~ん」と鳴く夏の風物詩。そうアブラゼミである。セミなんてものは、広島の古場監督の様に、姿を隠して鳴いているモノと思っていた。ところがどっこい、ここのヤツは、正面切って向かってくるのだ。ヒッチコックの『鳥』ばりの恐怖だ。私は展望台へ顔を隠して急いだ。
景色がいいこと以外形容しがいのない展望台だが、まあセミの恐怖の後の眺望は格別だ。記念撮影をして、再び境内に戻ってお寺のことを住職に問うた。
「お寺の割には境内には神社系の稲荷さんとかが多いですね」
「まあ、日本のお寺は神仏混淆で、お寺を建てる前には必ず、地場の神様の許しを請うことになっています。高野山でさえそうで、熊野をはじめとする和歌山はその神仏混淆の原型ですから。まあ、明治の廃仏毀釈の際には、その神社の『境内仏堂』ということで、廃棄をなんとか免れたわけですから、感謝しなければなりませんね」
ほ~う、とうなってしまった。なるほど、今でこそ神様と仏さんは分離しているけど、そんな区別は明治以降のモノなんやね。今でも日本人のメンタリティでは、釈迦も天照大神も上下はないもんなぁ。神社も明治期まで冷遇された遺恨で、廃仏毀釈をやってしまったけど、そこからエスカレートして国家神道へ爆走してしまった。国家の宗教は大目に見ても、天皇が神様の末裔(まつえい)というのは、行き過ぎやろ。戦後はその反動で、神社はすっかり力を失ったような気がする。でも、神社の中心である日本の神様たちには罪はない。それは、お寺側も少し考えてやったらいいのかもしれん。もう少し地場の神さんのこともPRするなど、表に出してあげたらいいと思う。寺と神社が蜜月だったときを思い返すのも悪くなかろう。
「このお寺に来る人は、オグリさんのことで来られます」
はて、オグリとは?オグリさんとは、小栗判官のことである。最近は、市川猿之助がスーパー歌舞伎で演じたことで、再び脚光を浴びた物語である。寺伝では、関東の地の争いに敗れた小栗判官が、僧形で妻の照手姫を伴って、湯治の旅に出かけ、愛馬の傷をここで癒したという。そのお返しに、小栗が1426年に、再びここを訪れ、お寺を再建し、救馬渓観音と名付けた。そのいわれか、ここの本尊は馬頭観音である。快慶作と伝わるが、残念ながら秘仏である。
小栗判官。いろいろな婉曲があるが、よくできた話である。梅原猛の戯曲によると、小栗は京の大納言の息子になっている。それが、嫁取りの件で失態を犯して、関東に下向。小栗党の領袖として頭角を現すが、横山党の娘を見初めて、親の許可なく、関係を持ってしまう。もちろん、親はカンカンだが、武芸が立つ小栗に簡単には手は出せない。酒席に家来10人と誘って、そこで毒殺してしまう。
父親も暴君ではない。むしろ武士の鏡なのであろう。小栗を殺すのは忍びないが、関東武士の掟に従ったと毒殺を悔いる。さらに、娘も同罪だというので、牢に入れて、舟で流してしまう。武士として、親として、苦渋の選択であったろう。奇跡的に、姫は命は取り留めた。流れ着いた村でかくまわれるが、事情があって、美濃の色街に売られてしまう。
一方で地獄では、小栗が閻魔大王の裁きを受けている。この閻魔さんが心ある善人。地獄に落とすどころか、それには惜しい人間だというので、家来10人の助命を受け入れて、現世へ送り返してやった。(話はそれるが、家来は無罪なのだが、火葬にされたため、喉仏がない。これがないと現世に戻れないらしい。ゆえに、地獄にとどまり十王になったという)
この世に戻ってハッピーエンドかというと、そうではない。そこからが複雑でお涙の物語なのだ。小栗は、皮膚がただれ異臭がする餓鬼の姿で、娑婆に戻された。希代の色男が、地獄より辛い目に遭うのである。そこで、踊り念仏の遊行上人に出会う。遊行は、小栗を引き車に乗せ、立て札をつける。「一引けば百僧供養。百引けば千僧供養」(つまり、この餓鬼を引いて行けば、それだけで仏縁が授かるとしたのである)
彼はこうして閻魔が指示した紀州の湯が峰に向かった。そして、美濃の青墓というところで、引き車が止まる。青墓とは、今の大垣の近くで、色街で有名な当時の宿場町である。そこで、女中として働くかつての照手姫に出会う。信心深い彼女は、いとまを主人にもらい、重い引き車を背負い、大津まで3日の旅を続ける。死んだと思っている小栗の供養のためである。台車に乗るは、愛した小栗だと知らずに。
う~、照ちゃんの健気なこと。小栗は、彼女があの照手姫だということを知るが、こんな身では名乗り出ることなどできない。破裂しそうな想いを胸にしまい込み、ただただ涙を流す。ああ、何たる因果よ!
梅原流小栗には、愛馬のことは出てこない。紀州に到着した小栗は、湯壺の中で薬師如来に助けられ、元の姿を取り戻す。そして、晴れて美濃の国守になり、青墓を訪れ、正式に照手姫に婚姻を申し込むのである。これにて一件落着!
この話には、遊行上人が登場するが、彼は一遍の弟子。藤沢市のHPによれば、時宗系の僧侶が、この小栗物語を得意に布教をしたのだという。史実では、常陸の国の小栗氏が、関東管領の足利持氏に敗れ、親は自刃するが、子の助重は領地のある三河に逃げた。これがベースになり、中世の『小栗判官』という希代の物語が誕生したのである。
ちなみに、住職によると、怪物と呼ばれた競馬のオグリキャップの馬主である小栗孝一さんは、小栗判官の子孫だという。中部のある地方では、小栗性が電話帳にずらりと並ぶそうだ。小栗判官が、照手姫と再会後その操を守ったかは定かではない・・・。
「願いごとを一つかなえてくれる一願寺というのがあるから、そこに行ったるわ」
虚弱だがお茶目な嫁の友人トモコロの案内で、山寺に向かう。こちらは、触れ込みが効果的なのか、参拝客は結構いたりする。我々夫婦もトモコロのいう通り、線香を買って、願い事をしようとするのだが、私はせっかくの線香を丸ごとコンロで燃やしてしまい、嫁は手順を無視して勝手気ままにお願いをする惨状。我らのささやかな願いはお地蔵さまに届くのか?
一願寺は通称。このお寺は、またの名を福厳禅寺という。そして、隠されたアピールポイントは、歌舞伎で有名な『道成寺』の清姫の菩提寺ということなのだ。題目としては、『小栗判官』より知られるか。
白蛇と人間の間に生まれた清姫は、宿を求めた修行僧の安珍に恋心を抱いた。安珍もそれを受け入れたが、夜半障子に映る大蛇の姿に恐れをなし、事情を知らぬ清姫をだまして、姿をくらました。それを知った清姫は怒り狂い、安珍を追いつめる。和歌山の道成寺にたどり着いた安珍は、鐘に隠してもらうが、これに気づいた清姫は大蛇の姿で、鐘にとぐろを巻くと、炎を出して、鐘ごと安珍を焼き殺して、自身も川に身投げして果てた。以来、道成寺の鐘は、清姫の怨念によってか、つり下げてもすぐ落ちてしまうので、鐘を置かなくなったそうである。こちらは、恋の話でもチト鳥肌も立つ。
住職とおぼしき方と話をすると、「道成寺は安珍がたまたま駆け込んだだけのもの。清姫さんとの関係でいえば、菩提寺のこちらの方が縁がある。まして、当時鐘がない寺は言葉は悪いが、貧乏寺といわれたが、それを逆手にとって、道成寺さんがうまいこと話を作ったのだろうねぇ」と少し嫉妬心も。
「ただ、菩提寺というのなら、子孫もいるんですよね?」
「もちろん。庄司さんっていうんです」
ふ~ん。でも、清姫さんの子孫の気持ちって複雑だろうなぁ。相手も悪いとはいえ、安珍さんを殺しちゃうんだから。あんまり「うちらは、清姫さんの子孫です」なんていえないもんなぁ。車中では「何で男はそんな薄情なの!」と非難ごうごう話していると、近くの清河のほとりに、清姫の墓が立っていた。地元の人は、清姫は安珍の後を追うことなく、川に身を投げたと伝える。悲しいが、こちらの話の方が、真実に近いのだろう。清姫が、美しい黒髪をといだという川は、今や家族が集う水浴び場。清姫の想いは、この清らな流れと同じく、澄んだものだったに違いない。照手姫と違い、こちらは少し悲しい。
話は、ここで終わらない。オチがちゃんとある。腐っても関西人や。
清姫と我々夫婦は不思議な縁がある。実は、嫁と結婚式を京都で挙げたのだが、翌日はのんびり市内観光としゃれ込んだ。そのとき、訪れたのが、京の北に位置する妙満寺。なんとここには、あの『道成寺』の鐘があるのだ。話は1359年にさかのぼる。道成寺で永らく失われた鐘を復活させようと、鐘供養が行われた。すると、その席に白拍子が現れ、呪力でその鐘を落としてしまい、蛇に身を変え、川に消えてしまった。それからというもの、災難が続いたので、これは清姫の怒りに触れたのだ、ということでその鐘を竹林に埋めてしまった。
後にこれを聞いた秀吉の根来寺(MONK歳との『地獄記』も参照してね)攻めの総大将である仙石権兵衛が鐘を掘り返し、京の妙満寺に納めた。(話はそれるが、この仙石という男はエピソードの多い男で、秀吉の首を狙った石川五右衛門を捕らえたとされる。)時の貫首の手厚い法要により、鐘はしっかりつり下がり、妙なる音を響かせたという。現在鐘は資料館に安置されている。
鐘は意外に小さなもので、これに安珍が入るにはちいと窮屈そう。そのことをMONKフォーラム影の顧問と慕う高校の先輩、上方文化評論家の福井栄一さんに話すと、「しっかりしいや、空石。安珍が隠れた鐘は炎に包まれて焼けてしまってんねや。これは、2代目なんやで」。言われてみれば、そうですなあ。この鐘は、2004年10月に約420年の時を経て約2カ月ぶりに道成寺に里帰りを果たしたという。
白はまに こえは残れどおなごらの いにしえの想い 黒髪と残らん 空石作
今回も、よい寺旅であった。