空石による紀行文

2011年12月12日(月曜)16:02に公開
作者: 空石

同行三人。

そう。今日はキグルイ仏友の円瓢のみならず、16歳からの我ら共通の仲間であり、円瓢とはアメリカ時代に「戦友」でもあった滝圭坊も一緒。

(お遍路参りの人は空海といつも一緒というので同行二人という。)

頼もしい友人、というか道連れ(「地獄」の…ね、言わずもがな)を得て、われ(空石)はJR六地蔵という、キッチュな駅に降り立った。駅は名前倒しなのだが、なんでも昔、西光法師というお坊さんがいて、京の入り口の六つの各街道沿いに地蔵を安置し、廻地蔵としたのが起こりという。ここは、奈良に通ずる奈良街道に当たるのだそうだ。

余談だが、奈良と京を結ぶ道は昔、物取りなどがすこぶる活躍したところで、なかなか物騒なとこだったらしい。その文脈で考えれば、京を守ったり、京から出る人の安全を祈ったことからお地蔵さまが置かれたのだろう。なんせ、地蔵は地獄にすら赴いて民衆を救うのだから。修羅、畜生…六道全ての世界に赴いて衆生を救済するので「六地蔵」というのがポピュラーなスタイルだ。みなお顔も持物(じぶつ)も違う。

そういえば、相棒の円瓢が言うておった:「普通は地獄絵図の中に地蔵は登場させへん。なのに、京都の町に『地獄地蔵』という強烈な絵画がある。京大におったときにちゃりで見に行ったが、寺務所(「じむしょ」と呼ぶ!)のこたつに入ったばーちゃんが面倒くさそうにみかんをムキながら案内してくれたは…」と。お目にかからねばならん。

さて、話を元へ。たっぷり地獄を味わうのなら、腹ごしらえから。「腹が減っては地獄も遠のく(←では、よいのではないか!?)」と言う。そういうところは、いたって我らは世俗的なのだが、手ごねハンバーグなるファミレスに入り、いつものことながら朝のディアロゴス(対話)としゃれ込んだ。

小一時間ほど笑いの絶えぬ対話をかました後、外へ。



『町並』というアカラサマにやる気のない名前のバス停から醍醐寺に向う。去年の暮れに行ったため見慣れた境内は、やはり人気が少ない。閑散とした境内には、大寺だけあり立派なお堂が並んでいる。その中に、少し新しいお堂があり、なにやら、せわしく堂内を掃除している人がいる。見ると、珍しい涅槃仏(臨終前の寝転がってるブッダさま)が祀られている。私服の礼儀正しそうな人たちは、はじめ学芸員と思っていた。

が、よく堂内を見ると、見慣れぬ人の胸像があった。おぉお?地獄組は興味を持って近づきさっそく声をかけた。真如苑の皆さんであった。これも何かのご縁でしょう。「拝んでもいいですか?」と尋ねると彼らはちょっと驚いていたが、すぐに満面の笑みで場所を空けてくれた。そしてしばしの歓談。

開祖・伊藤真乗はここ醍醐寺で修行して大阿闍梨となった。要は、ここの寺にお礼のお布施をしているのである。醍醐寺の方も、新興宗教だからと反目するでなく、それを受容している。昔は大貴族や権力者、そして今は新興宗教などの個人が、したたかに歩み寄り、かような寺院は存続しているのだなあと感心してしまった。なお、お堂は真如三昧耶堂という。

五重塔と大講堂を横目に進んで、小さな川を越えると石の鳥居が見える。ここが、上醍醐への入り口だ。女人堂とあるのは、ここから女人禁制であった名残である。いまはカップルも見られるのが微笑ましい。また、ここには五体の銅像が厳かに安置されている。その中の一人が開祖である聖宝。彼こそが修験道の中興の祖である。

山岳信仰に深い関心があった聖宝は大峰山(奈良にある修験道の総本山)信仰の復興に尽力し、後に醍醐寺が当山派修験道の総本山となったのだ。(ちなみに本山派は天台系で当山派とあわせて日本修験道の二大流派となる。)聖宝をはじめ、大分どっちの世界へもイッちまってる修験者たちが修行していたのが、これから登る笠取山の上醍醐なのである。 けっこうな道のりだ。

勾配のきつい木で組まれた階段が、気の遠くなる高さめがけて続いている。こんな難路をゆっくりと一歩づつ、数多の老人たちが歩を進めている。杖を突きつつ、上を目指す。さすが、西国観音巡り一番の難所である。まさに、苦行の様相である。額から、汗水タラリ、冷汗タラリ・・・。信心深いから登るのか、元来丈夫だから登るのか。これだけ苦労して登ると喜びもひとしおだろう。若人の少ないのはどうしたことか。おのれらも見習え!



道の途中に、大きな石碑が朴然と立っていた。これが奇妙奇天烈なのだ。なんと、石碑を亀が背負っていたのである!難癖付けのわれらが、ああこれは、バリ島で見たぞやらと言い合っていると、一人のばあさまが事も無げに意味深の言葉を吐いた。

「兄ちゃんら、わたしゃそれ、大阪の観音様で見たことあるでぇ。」

なんと、ばあさま!!このご老人、伊達に暇に飽かして観音巡りしてる訳ではない。「若いの。まだまだ修行が足りぬなぁ。仏はまだまだ待っておるぞ!」そう言われた気がした。ガツンと一発かまされた。これだからお年寄りとの会話はたまらない。われも相棒の円瓢と高校生のときによく神社でお年寄りと話していたものだが、これは未だに変わらない。ええ。上には上がいるものです。

こちとら負けじとインテリ根性出して調べたさ。ほんとにあるのよ、亀に乗った観音様が。大阪は茨木の総持寺。もちろん、由来もあります。



藤原高房なるものが大宰府に赴任する途中であった。漁師の網にかかった亀を不憫に思い、高房は「観音様の縁日なので、逃がしておくれ」と自らの着物と交換して逃がしてやる。その翌日、跡取り問題で乳母が継母とはかり、高房の子を淀川に突き落とした。高房はそれを嘆き、観音に祈った。

すると、助けた亀がわが子を乗せて帰ってくるではないか!高房は観音の恩に報いるため、造像を誓うがほどなく亡くなってしまった。子の山蔭は父の遺志を継ぎ、遣唐使に造仏に使う霊木を求めるよう頼んだ。彼こそは、イルカに乗ったトリトンならぬ亀に乗った少年であった。遣唐使は霊木を購入するが、国外持出しをとがめられて、仕方なく銘文を刻んで海に投げ入れる。

いやはや、昔の話は実によくできている。いわゆる河合隼雄の言う「ものがたり」に仕立てられていく訳だが、一流の「storytelling fixer」がいたんだね。

さて、その霊木を明石で山蔭が発見し、京に運ぼうとする。しかし、茨木に着いたところから一歩も動けなくなってしまう。これは何かのお告げであろうと、ここに寺を建てることを決め、観音信仰で著名な奈良の長谷寺で祈願したところ、寺を出て最初に出会った人を仏師にしろ、という夢を見る。果たせるかな、門前で童子に出会い造仏を頼む。子供は像を完成させると空中に消えてしまった。この童子が長谷寺の観音様であったというのが亀に乗った観音様のお話。

なんのこっちゃ、という話ではあるが、この話は今昔物語をベースに長谷寺の勧進僧が脚色を加えたものだとされている。ここ辺りがものがたりフィクサーですわな。ここ醍醐寺も観音霊場ということで、そのいわれが碑文に書かれていたのでは、と推測するわけよ。「でも、何で亀なのよ?」それには答えていませんでしたな。まあ、待ちなはれ。さらに突っ込みましょう、地獄の果てに・・・。

亀といえば、そりゃ浦島太郎ですよ!藤原のなにがしなど誰も知らない。(山蔭てのは非凡な人で四条流という包丁捌きの祖で、料理人の神様ともされている。…事実、ここ総持寺には全国で最も著名な「包丁塚」があり、年に1度の縁日では山蔭流の包丁さばきを実演してくれる)浦島太郎伝説の初見は、715年に出された『丹後風土記』なるもの。なんでも、そのふるさとには浦嶋神社があり、二代目の玉手箱が置かれている。(二代目というところがニクイ!)

昔から思っていたのだけれど、この物語どう考えてもハッピーエンドではない。豪遊したはいいけど、帰ってきたら知っている人もおらず、玉手箱を開けるとじいさまになってしまった。これはもう悲劇としかいいようがない。図に乗ったらあかんという、教訓やで、教訓!まあ、太郎はその後どうなったかわかりませんが、おそらく孤独死していったのでしょうね。どないやねん?そのお墓は、香川県の詫間町というところにあります。亀に揺られて行ったのでしょうか。悲しい限りであります。

でも、救いのある話もありますぜ。寂しさに耐えかねた太郎は旅に出た。そして、竜宮にも劣らぬ桃源郷を発見した。長野県の上松町というところで、『寝覚ノ床』という川のほとりにたどり着き、そこに住み着き生涯を終えた、というものです。少し、救われる気がします。円瓢が言うには、名古屋から長野行きの特急「しなの」に乗ればよいとのこと。なんと桃源郷エリアになると電車が速度を落とし、車掌さんが名所案内のアナウンスまでかますというサービスぶり!一度体験してみましょう。

あぁ、例によって話が漂流し始めたな…。まるで亀に乗った孤独な旅人のように。が、もう少しお付き合いあれ。

浦島太郎のモチーフは別のところにあるとも言える。つまり、この話は説教譚などでなく、中国から伝わる不老不死の願望の現われとも考えられるのではないか。こう考えれば、亀ちゃんは物語に必然性を持たしている。亀は不老不死のシンボルである!(そんな威張るほどのことでないが・・・)古代中国では、亀は四霊のうちの一つとして崇められた。(他の三つは麒麟、龍、鳳凰)長寿のシンボルで、未来を予知するとされた。昔、シャーマンが亀の甲羅で占いをしていたというアレです。韓国では、貴人の衣服の柄にもなっていますしな。

おぉおおっとお!ここで、醍醐寺の亀に戻りますよ!あくびしてたらアカンで。中国や韓国では、亀の霊性に授かろうと、皇帝や王の墓石の下に亀を配置したものが多数ある。これを亀?(キフと読む)という。これは、日本にも鳥取に例があるらしく、藩主池田家代々の墓の下には、ちゃんと亀がいるのだそうです。そうなると、漂流してきたのは亀の伝説というわけで、浦島太郎が漂流したわけでない!なるほど!

まあ、何はともあれ昔から崇拝されていた亀が、このような形で現れることは何の違和感もないのである。奇しくも、我が地獄の友、円瓢のフリースの柄はタートル(亀)プリント。米国はバークレーにて買い、なぜか名称が「禅タートル」というファンキーな代物。おまけに通りを歩いてたらルンちゃんに「ええの来てるね、兄ちゃん!」と褒められたらしい。訳が分からんぜ、米国人。っていうか、バークレーって町。地獄を味わいつくすまでは亀となりてわれ死なん、という現われか?言語道断、大死を死すってか?なるほど、禅やわ。

やっと着いた。准胝観音がおわす本堂に。生憎といおうか、そんなものかという感じで、門扉の閉まった厨子を眺めた。開くのは年に一度だそうだ。その代わり、本堂を出るとけったいな仏さんに出会った。その名も、子育て地蔵。なんとその仏様は御手に愛くるしい仏様をのしておられる。いったいどっちが子育て地蔵なのだろう。もちろん大きいほうが育てたのに違いないって?それはあまりに仏教に遠い日常的な発想ではないかしらん?では、小さいのは何地蔵なのか?寄進者が作った最近の石像であるが、発想はよろしかった。茶沸観音に続く奇仏と言えよう。



身が凍えてきた。噴出した世俗の汗が急激に冷やされていく。その報いを受けるかのように。少し不遜だが、札所の印を乾かすドライヤーで暖を取った。見れば、『ハイヤー25000円』とある。何でも、隣の札所・岩間寺に行く巡回タクシーサービスらしい。なんか、この値段を払ってしまうと、ありがたさが半減されてしまうような・・・友は寒さより、空腹が答えたようであった。アメ車のようにパンをほうばっていた。

ひょうが降ってきた。艱難辛苦が降り注ぐ。はははあ!試しておくんなせえ!バイブルにもあるとおり!われわれは、寺の起こりともなった醍醐水を口に入れて山上を目指した。

高低差の激しい道を行くと五大堂に至った。ここに奉られている五つの明王像は、精緻ではないものの明王の力強さが色濃く出されていて秀逸。また、身近で拝めるのもよい。ただし、この日はなぜか門扉が閉じられていたので、事前の確認が必要であろう。

壷には氷が張っていた。そして、醍醐寺の結界、痛恨のひなびた鳥居が現れた。そう。去年末に涙を呑み鼻水をすすったあの無念のポイントである。



「岩間寺に行くにはこっちかのう?」

老人が聞いてきた。「でも山2つ超えねばなりませんよ」と答えた。老人は唖然として、もと来た道に帰っていった。俺も思うけど、ここから次の札所に向かう人はいるのかな?ともかく、われわれは、心苦しくも老人を見捨てて仏の道を急いだ。すまぬご老人。我々は地獄の旅人なのです。タクシーに、同乗なぞできないのですぅ(「ひろし」風に)。

獣道が続く。同行三人でちょうどなくらい、寂しい小道を行く。これが1人だと、ツッコミようのないマジの修行になっちまう。しばらく、何の変哲もない道を黙々と進む。30分ぐらい歩くと、人家が目に入り視界が開けてくる。山あいの町であろう。学校らしき建物も見える。

道路に沿って歩くと、おばあが野菜などを売っている。こんな山あいの道に人なんて来るのであろうか?もしや、われわれが数日振りの客ではなかろうか?少しかわいそうになり足を止めて「なんか腹のふくれるものある?」と聞いてみた。おばあは、「焼きたてのもちがあるわ」と言ったので、寒さに震えていたわれわれの顔が一気に高潮した。

が、彼女がおもむろに取り出したのは、発泡スチロールの箱。中には簡易カイロがあっただけ。「焼きたて」とは、こういうことも言うのか…新井出(「広辞苑」の編纂者)に教えたらな!と血が騒ぐ。

「悪いね。売り切れだからこのせんべいにしときぃ」と自信満ち満ちた声でのたまう。少したじろんだが、おばあは手を緩めない。せんべいを出されたのでしょうがなく、1つ買おうとして100円出すと、300円という。ま、までぃ?俺は、申し訳ないので1つを情けで買おうと思っただけなのに・・・。手には3袋のせんべいがあった。

お、恐るべきおばあ・・・。われわれはこんなにあっても仕様がないせんべいをリックに入れ、田舎の年寄りをなめたらあかんねと教訓を胸に秘めた。地獄の沙汰も金次第なのか。



円瓢が奇妙な看板を発見した。『ハンターの皆様へ』この道路は通学路なので、むやみに発砲しないでください、とある。ちゅうことは、このエリアは流れ弾とか飛んでくるのとちゃうか。いや、この地はむかし治外法権でアメリカみたいに自分の身は自分で守れ、見たいなところがあってバンバンしてた頃の名残と違うか?彼の説明は続く。なるほど、そうであれば、先のばばあの強欲ぶりは説明が付く。

完全に独立独歩やねんでここは!『入学募集中』とあった学校ののぼりは、ここ数年で流れ弾に当たった児童が多すぎたためちゃうか?人通りが少ないのもそのせいやで、きっとな!!友は根拠のない三段論法を熱弁しつつ、我らはまた道に迷ったので、人家で人を求めた。出てきた奥さんは、独立独歩の西部並みの共和国の土地柄に似合わず、野にそっと佇むお地蔵さんのような優しい人であった。親切に道を教えてくれた挙句、帰り際には、おなかがすくでしょうと、石垣から坂下にいるわれわれにみかんをほおってくれた。「おんかかかびさんまえいそわか」。地蔵菩薩の真言と共に合掌して先を急ぐ。

ここは、これでも宇治市であった。地名は笠取。人口は平成10年で319人。まさに開拓前の西部のおもむき。現在はもっと減っているのかもしれない。われわれがそのまちで確認できたのは3人だけであった。これを100倍すればよいのか…意味不明な計算をしてしまった。

またひとつ山を越える。そして、集落があった。こんな山奥に人が生活できるのか?箱庭みたいにコンパクトに家が地形に沿って並んでいた。ある意味では絵葉書のように日本の原風景を演出している。懐かしい感覚。ずんずん歩くと、またまた面白い表札を見つけた。

 『社長室』

!!家のすぐ横のはなれに、屋外の簡易トイレのような小屋があり、小粋な字体の表札がかかっているのだ。何の商売をやっている人の『社長室』なのだろう。気になる。ものすごく、気になる。それより、こんな田舎の集落の中で『社長室』と自信満々にやってしまう少しイタイ感性にシビレル。案外、営業許可のないスナックなのか?ということは、そこでは全員が「社長」?…とにもかくにも、想像力をかきたてられる村なのだ。(我々だけか?)

とにかく歩くしかない。『徒歩禅』ということを言った詩人がいた。自由律俳句で名をとどろかせた種田山頭火である。何だかすっと入って来る言葉だ。(実際に禅堂には「きんひん」と呼ぶ「走る禅」がある。)彼は、漂泊の旅をしながら、食べ物がなくなると乞食をして、また歩いた。これが、案外放蕩道中で、完全に世俗と切断されていたわけでなく、酒もあり女もあり。そして、その合間から、あの瞬間をむしりとったような切断面の俳句が生まれたのであった。それは、独り言のようでもあった。

分け入っても 分け入っても青い山          山頭火

常緑の季節ではないので、青くはないが尾根を進んで奥宮神社に至る。ここの目玉は眺望である。なんと、琵琶湖が一望できるのだ。なんせ、われわれ京都から来たわけですからね、ほんとに。この、澄み切った琵琶湖の青と空の青、疲労困憊もぶち飛びますわ。そのついでに、空腹を癒す黒糖パンをむしゃむしゃ食べる。道路にタクシーが猛スピードで過ぎていった。疲労困憊して揺れている俺らが幽鬼に見えたろうか?

あれが、例の巡礼ハイヤーやね。ありがたみが薄れるわな。ちきしゃう。そこでわれわれ考えました。

重源は権力者にも屈しなかった。東大寺の供養を源頼朝が行い、面会を申し出たとき、彼は高野山に引きこもり面会謝絶を行った。気合の入った坊主である。この意志の強さが大仏のもとにある。その重源も醍醐寺出身であった。おそらく、まさにこの修験道で修行を積んだのであろう。それに習おうではないか。一輪車は無理でもモトクロスバイクに荷台を設置し、その上に乗っていただくというものはどうだろう。ショートカットにもなるし、重源の気持ちになり、観音経を唱えて修験道を疾走することは、ご利益も倍増と見たが、いかがなものか。

やっとの思いで岩間寺に着いた。今回の地獄も最終コーナーをまわった形だ。西日が境内を黄金色に照らしている。西国観音霊場であるこの寺の観音は、汗かき観音と呼ばれている。何でも、民衆を救うため、日没とともに136の地獄を廻り衆生を救うのだという。朝に厨子を開くと、仏様が夜の勤めで汗がびっしょりしていたというのが由来だ。

芭蕉もここを訪れた。「古池や 蛙とびこむ 水のおと」の句を霊験から得たという。「古池や・・・」の池というのは各地にあるらしいが、近くに幻住庵を結んでいたことを考えるとあながちうそではあるまい。ここからの道は下山である。

田んぼ、一軒家、アパート。歩くたびに生活の匂いがしてくる。俗世の権化・コンビニでホットコーヒーを腹に流し込んだ。ところで、このコンビニが気になった。フェニックスをかたどったロゴが付いている。『Seicomart』という滋賀などの田舎出でよく見るコンビニなのだ。関西発のローカル中心のニッチコンビニかな、と思いきや本社はなんと札幌だった。どないやねんな。

しかも1号店が1971年。(われわれが生まれた年)それは、セブンイレブンの74年、ローソンの75年よりはるかに早い。なんで、滋賀に多いかというと、88年に滋賀酒販とエリアフランチャイズ契約を結んだからだとHPにある。とはいえ、北海道が本拠の会社、1,000店のうち800店が道内というから、こんなによそ者の私たちが目撃することは、滋賀での密集率が高いのであろう。

このコンビニ、どこかスーパーちっくだ。商品が値引きされている。消費者にとってはうれしい限りである。まあ、どうでもよいことだが、沖縄のオリオンビールみたく、滋賀では平和堂とセイコーマートというのが私の勝手なイメージなのである。

夜道を歩く。瀬田川の静寂な流れに沿って。私は元来川が好きなのだが、この川は春には学生がカヌーの試合をしていたりで、ぼーっと散歩しているだけでも楽しい。小腹がすいたら土産物屋の食堂でしじみご飯などがよろしい。願わくば、川沿いの感じのよい情緒ある旅館で、一夜酒を飲み明かしたい。山頭火になりてぇってことよ。つまりは。

付け加えると、山頭火は旅の途中、無銭で宿を取り、芸者をあげて、主人が心配しても、かまわなかった。数日後、重い腰を上げて、電話でお金を無心して(大抵元妻)、それでも無茶をする。お金が届くと、主人はホット胸をなでおろしたという。

原始仏典に『犀の角のように独り歩め』とある。私はこの言葉を好む。ともすれば、のんきと捉えられがちな犀。仏陀はその角のようにまっすぐに進めと説いた。屹然と天を突き刺す角のように。

『四方に遊行し、害心なく、あらゆるものに満足し、もろもろの危難に耐え、恐怖心なく、犀の角のように独り歩め』と。

山頭火は、行乞の酩酊と正気の間をさまよう中、しばしこの境地に達したのか?無論、われわれはまだ、犀の歩みに寄り添うのみだ。

同様に山頭火を好む円瓢が、締めにポツリとつぶやいた。

まっすぐな道で さびしい                山頭火

そして修行は続くのだ・・・。