宇治でIT企業のはしりを発見(2018年6月・京都府宇治市・宝蔵院)

宇治の萬福寺からすぐのところに、宝蔵院という小寺がある。
入り口になにやら看板が…。
 
「原稿用紙のルーツ」というところに惹かれて、山門をくぐった。
 
建物にかけてある鐘を叩くと、柔和なお顔のご住職が現われ、説明を施してくれる。
 
まずは…とお堂の裏にそびえるポタラ宮のような建物に案内される。
このお寺の肝は、この建物にある。
 
薄暗い階段を上ると、そこは倉庫のようになっている。
よく見ると、文字が書かれた版木が所狭しと積まれている。
 
これが、日本の仏教史に革新をもたらした重要文化財にもなっている一切経版木である。
全巻で6956巻とパンフレットにある。
ご住職の説明によると、鉄眼という黄檗宗の僧侶が、隠元から明朝から持ってきた仏教の経典を網羅した大蔵経を授かり、
北は蝦夷地から、南は薩摩まで行脚し、全国行脚の末、資金を得て、この版木を完成させたという。
この明朝というところもミソで、これで明朝体が全国に広まった。
そして、版木の40文字×40文字の形式が、原稿用紙のマス目のもとになったとされている。
見れば、確かに綺麗な文字(反転しているが)が整然と並んでいる。
 
簡単に説明したが、これは仏教史に革命的な出来事であった。
どういうことかというと、これまでの大蔵経というものは、書き写しのいわゆる写本であり、
それは当然都に近い大寺院しかなかった。だから、仏教を勉強しようと思えば、比叡山とか高野山や京都、鎌倉に行かねばならなかった。だが、この版木ができることにより、印刷が可能になり、大量に配布することが可能になったのだ。
そして、大都市だけでなく、地方の寺院にも大蔵経が置かれることになった。
 
今風にいえば、インターネットにより、誰もが情報にアクセスできるようになったということだ。
キリスト教でいえば、聖書が印刷技術により、一般人にも広がったことにも似ている。
 
この事業を遂行したのが、熊本生まれの鉄眼という僧侶。
1664年に発願して、1678年に完成とパンフにはある。
この大事業は、戦前の教科書には紹介されているのだという。
 
先見の明があったと思う。
全国から絶対的ニーズがあって、「これは事業としてイケる!」と鉄眼は確信していたのであろう。
当然、寺院に寄進もしたであろうが、大名や大旦那には、「これだけかかりますよ」と商売したのだと思う。
日本の出版事業の先駆者といえる。
鉄眼は、非常にすぐれたビジネスセンスを持っていたといえる。
 
でも、彼が利益目的でやっていたかというとそうではない。
ここは社会事業に注力した隠元門下の黄檗の血も流れている。
 
実は、この大事業は2度も頓挫している。
頓挫という言葉が正しくないかもしれない。
1度目は大洪水、2度目は大飢饉。
鉄眼は、集まった浄財を「窮民のために」となんと、全額使ってしまった。
惜しげもなく、しかも2度も!
 
いさぎいいやんか!
ここは今どきのIT長者とは違うとこよ。
 
鉄眼の偉業は現在にも続いている。
ご住職の説明は続く。
 
「これらの版木は重要文化財ですけど、今も刷られて、発注に応じているんです」
 
見れば、倉庫の奥では男性が作業をしているようだったが、
彼が今も版木に墨をつけ、経本がつくられているのだろう。
 
京都市内に「貝葉書院(ばいようしょいん)」という会社があり、そこが発注を受けている。
 
「よく寺院で大般若経の転読(経典をパラパラと広げて、読んだことんびする法要)がありますけど、
あれを何度もやっていると、経典の折り目などがさすがに傷んできて、新たに発注される方もおられるんです」
とは先のご住職。
 
発注というが、その価格たるや眼が飛び出る。
600巻ぐらいになるのだそうだが、貝葉書院のHPによれば、豪華版の片面印刷などは680万円とある。
ネット販売などみれば、ほかの印刷ものは300万円程度。
しかし、ここは鉄眼が心血を注いでつくった魂が込められた大般若経となる。
これが功徳というものなのだろう。
 
ちなみに、どういう計算かわからないが、HPではこの事業を今日的な価値で計算すると、30億円とされる。
 
ならば、680万円でも安すぎるかも。
 
 
●宝蔵院
 京都府宇治市五ヶ庄
 JR奈良線・黄檗、京阪宇治線・京阪黄檗から徒歩5分
 ☎0774-31-8026
 

織田信長も飲んだという酒がいよいよ…(2017年12月・滋賀県東近江市・百済寺)

百済寺をご存じか? 「くだらでら」ではない。「ひゃくさいじ」と呼ぶ。
大阪から京都を越えて、近江八幡から近江鉄道に揺られて、ガタゴト。八日市からさらにバスで約30分。そんな僻地に百済寺が、立つ。
山寺と侮るなかれ。庭園が見事で、先日上映された「関ヶ原」のロケ地にもなっている天台宗の古刹だ。そんな百済寺がいま、再び脚光を浴びている。
お酒の話だ。古文書によると、この寺では室町時代から、清酒が僧侶により製造されていたという。この種の酒を「僧坊酒」と呼ぶらしい。
都では「百済寺樽」は有名だったらしいが、時代が少し下った戦国時代、この寺に逗留した織田信長が、このお酒をたしなんだらしい。信長は、当時広大な寺領を誇った寺院に、朱印状を出し、土地を安堵し、保護したが、歴史の皮肉。敵対勢力と結んだ寺院に、信長がブチ切れて、全山を焼き討ちに。ホント信長は、延暦寺はじめ天台宗とそりが合わない。
そんな信長と浅からぬ縁がある百済寺で作られた「百済寺樽」を現代に復活させようというプランが、地元で着々と進んでいる。
クラウドファウンディングなどで得た資金をもとに、喜多酒造の協力をあおぎ、製造にこぎつけた。
試飲会は1月中旬。順次地元でも販売予定という。ただ本数は多くはないので、現代でも幻のお酒になるのかも。
 
 

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