「施餓鬼」に思う (2002年8月)

盆になりますと、真言宗に限らず禅宗でも真宗でも「施餓鬼」供養を行いますよねえ。空腹でなくなったであろう数多くの名も無き人、獣、虫、草花…という一切衆生がいわゆる「餓鬼道」で永遠にひもじくさすらうという「仏教的事実」を踏まえ、それらを集中的に供養するという期間です。私はこの時期が非常に好きでして。全然知らん寺などにお邪魔して合掌する、というのが18以降夏の慣わしになっておる、正に爺そのものの私です。

一神教ではあまり頻繁に表に出てこない「名前が特定されていないものを悼む」という仏教の特徴が全面的に出てまして、僕にはとても美しいアジア的感性に感じられるのです。たいてい祈祷が捧げられるのは「~のために」だとか、「~になるように」という特定化された対象が出るのですが、施餓鬼は文字通り「餓鬼に施す」というテーマ以外、一切の差別をつけません。虫だろうがバクテリアだろうが、何でもあり。

唱えられる経典も本尊もが、地蔵菩薩(地面を這うように、一切のものを救う、という意味の「地・蔵」サンスクリット語「クシティ・ガルバ」から)であるというのも特徴的ですよね。高野山は奥の院も含めて異常に地蔵菩薩が多いという事実に気付いたことありますか?「地面を這いつくばってでも、全部救ったるで、おら!」という覚悟が、21日に入定留身された弘法のじっさまのテーマにも重なり、非常にイカシマス。

まさに「草の根救済」を地でいってる地蔵さん。奥の院に祭られる戦没者の墓には、ほぼ全てといってよいほど「敵」であった米兵やオーストラリア兵、そして現地住民への祈願が一緒にくっついている、ちゅうのも、非常に、「慈悲」を旗印にする大乗仏教的で、ほとほと宜しうございますね。

おんかかかびさんまえいそわか。

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