空石による紀行文

『ねごろ』という名前、どことなく言ってはならない呪文の香がしまいか。その地は大阪と和歌山の境、葛城連峰がこの地で凝れるところから嶺凝(ねごり)と呼ばれる。暮れも迫った12月28日、俗世の塵芥を払い落とし、身を隠すように根来寺へ向かった。根来は、たくらみごとを秘めて我々を待っていた。

朝早かったと記憶する。仏友のモラ坊円瓢が、寝ぼけ眼の私に言う。

「おい、月蓋長者って知ってるか?」

こやつ、寝ずにパソコンを叩いていた様子だ。がつかい?なんじゃそれ?でも、そのギラギラした眼から興味のほどがうかがえる。

「何でも、根来寺にその仏像があるらしい。珍しいので、調べてみたら、これが結構面白いのよ。」

仏像好きの私も聞いたことのない名前だ。円瓢の言うには…

月蓋長者はいきなりインド人である。釈迦の時代の人間だ。おそらく、仏教経典に登場するのだろうが、日本で有名なのはある寺社縁起のためだろう。それは『善光寺縁起』である。「牛に引かれて善光寺参り」で知られる長野のあの古刹だ。平成15年は特に人がこの寺に引かれる年で、7年に一度のご開帳が行われている。縁ちゅうのはうまい具合にできておって、仏友はその後、長野くんだりまで出向いてご開帳に立会い(おまけに上人さまに数珠で頭をなでてもらい)、本尊と五色の綱で結ばれた回向柱に結縁して、ご丁寧に回向柱のミニチュアを私の土産にしてくれた。合掌。



よほどのご利益があるのだろう。戦国時代には、武田信玄、徳川家康、そして豊臣秀吉までもが、このご本尊を奪い合った。しかし、放浪の末1598年に善光寺にカムバックした。今でさえも人を惹きつけて止まない仏像とは・・・。

この仏像は、一つの光背に三尊がおられる特殊なもので「善光寺様式」と呼ばれる。全国で数々の同型仏がつくられ、平成4年の調査では、その数443といわれている。それぐらい有難がって造られた仏像なのだ。しかし、である。先ほど、善光寺の本尊といった。これは正確には違う。前立三尊といい、『絶対秘仏』の本尊を模写したもの。ご開帳はこの前立ち三尊の方のみだ。実際のお姿は、誰も知らないというけったいな仏さまなのだ。一体全体、本当におられるのか?あぁ、また大乗の空のパラドックスが…。ともかく、なぜに人はこの三尊像に魅せられてしまうのか。この鍵は、寺の縁起に隠されている。

ここで月蓋に登場願おう。彼は、仏教の八大聖地ヴァイシャ―リーという国の富豪で、市長まで務めた。この町は商人の町で、月蓋をはじめ多くのお金持ちがおり、仏教教団も彼らの経済力に少なからず頼っていた。仏陀もこの町によく立ち寄っている。さて、この月蓋さん、縁起では相当の性悪として描かれている。

ある日、仏陀はそんな月蓋を正しく導いてやろうと、その門を叩いた。月蓋は「うっとおしい奴が来よったわ。ちょっとお供え物を出して、体よく追っ払ってまえ!」と門まで行ったが、「一回やったら、調子に乗りよるで、この坊主は。わしは京都人みたいに『ぶぶづけ』出すほど甘ないんや!」と言ったかどうかは不明だが、ともかく、あろうことか仏陀を追い返してしまった。

そんな性悪だが、月蓋には一人の娘がいた。そこは父親、眼の中に入れても痛くないといった風であった。ある日、疫病が国を覆った。当然の展開として、病気は娘にも及んだ。長者は半狂乱になり、財を使い、あらゆる方法で娘を診てもらったが効果がない。仕方なく、わらをもすがる想いで、彼は仏陀のところにやってきた。そこで、過去の行いを懺悔し、娘を助けてくれるよう懇願した。ここからが話のミソである。準備はいいかい?

仏陀は、「私には娘を治す力はない。ただし、西方極楽世界の阿弥陀如来にすがって、南無阿弥陀仏と念ずれば、如来が現れ、娘を救ってくれるだろう。」と答えた。試すわけやね。

月蓋は言われたとおり一身に念ずると、気持ちが通じたのだろうか。西方十万億土のかなたから、一尺五寸の大きさで、一光の中に大勢至菩薩と観世音菩薩を脇侍とした阿弥陀如来さまが現れた!すると、娘はおろか国中の民の疫病が治っていくという、待ってましたのストーリー進行が。ますます信心が深まった長者は、このありがたい仏様を写して、三尊仏をおまつりしたいと仏陀に申し出た。仏陀は、神通第一の弟子・目蓮を竜宮に遣わし、 閻浮壇金を竜王から譲り受ける。閻浮壇金とはインドの伝説的大木の森を流れる川から取れる最上級の砂金のこと。それを手にした長者は、うやうやしく鉢に入れ、如来の再来を願った。すると、三尊仏が現れ、閻浮壇金を照らすと、三尊仏に変化した。長者は、当然のこと、この仏を終世大事にし、多くの人がこの仏に結縁したと伝えられる。これが、後に日本に伝わる善光寺仏。これが月蓋さんのいわれと相成る。

…ここまできたら、インドから日本への旅まで物語を進めようか。インドで役目を終えたこの仏様は、百済の聖明王のもとにも現れる。この王も昔は悪行を重ねていたが、仏の教えにより改心した。また、聖明王は日本に仏教を伝えた人物。新羅との抗争で、欽明天皇と同盟したが、戦の際、息子を救おうとして戦死してしまった悲劇の王である。

この仏様は次なるターゲットを日本に定める。どんぶらこと日本に上陸した仏さんですが、おいそれとは受け入れられなかった。異国の蕃神と排仏を唱える向きもあり、崇仏派の蘇我稲目が家に持ち帰られた。これがわが国最初のお寺といわれる向原寺である。あるとき疫病にかこつけて、排仏派の物部尾興が寺を攻撃、寺はあえなく燃え尽きたが、三国伝来の仏様の加持力は伊達じゃない。そのままのお姿ですっくと立っておられる。そこで、鍛冶屋を呼んで叩いても、仏様はそのまんま。やるかたなく、彼らは仏さんを難波の堀江に投げ込んでしまった。どぼん。

その後、後を継いだ蘇我馬子は聖徳太子とともに物部氏を撃破、仏法を国の根本に据えた。聖徳太子は、堀江の仏をお連れしようと祈願した。すると、如来がお姿を現した。ここからがこの物語、なかなかに面白い。如来は太子に言ったという:

「今しばらくはこの底にあって、我を連れ行く人が来るのを待とう。そのときが衆生を救うときなのじゃよ」

そういうと、再びチャポン。道頓堀に阪神ファンによって投げ捨てられたカーネルサンダースおじさんのように、水面に深く沈んでいくのでした。太子の願いを袖にしたわけです。といっても、これは中世の太子信仰をも取り込んで、縁起のありがたさを高めてものがたりを発展させたストーリーテーラーの勝利というわけ。河合隼雄老師も言われるように、ものがたりって言うのは巧みに進化していくものなのです。

時は流れて、信濃の国に本田善光という行商のものがおり、あるとき難波の堀江に差し掛かった。すると、「よしみつ、よしみつや」とどこからともなく声がする。おどろおどろしい展開です。声のほうを見やると、三尊仏がゲッターロボのように現れた。腰が抜けたどころではないであろう。

「私はインド、百済と渡ってきた三国伝来の仏である。お前は、月蓋長者、聖明王の輪廻したものである。今こそ、長野にわしを連れ帰り、衆生を救う時なのじゃ!!」

えぇぇえ…。そんなこと言われてもなぁ・・・。そう思ってももう遅い。因縁という仏を背負い、彼は長野でこのありがたき三尊仏をおまつりする。これが善光寺のはじまりとなる。



なんたる壮大なストーリー。奇想天外さ。聖徳太子との対面のあたり、仏がトリックスターにさえ見えてくる。このすさまじく、自由闊達な想像力が、勧進僧によって衆生に伝えられ、それが長野という山深くの田舎まで『牛をも連れて来る』原動力になったのである。

五来重は『寺社縁起からお伽話へ』の中でいう。

「『寺社縁起』は仏教文学のなるものと私はおもうし、それは口承文芸資料としても日本仏教資料としてもきわめて重要性をもつ、日本民衆の文化遺産と信じている。すなわち仏教文学なのである。」

善光寺縁起も無名の僧侶によって語り継がれたものだが、それがどれだけの人を惹きつけてきたかは、本年の善光寺ご開帳行事を見れば、一目同然である。余談だが、その経済効果は長野県で1,000億円以上といわれる。「(科学的)事実」かどうかなんて、どうでもよい。ポイントは、「神話的事実」としての智恵が実際に億単位の人間を動かす凄まじさであり、その神話空間自体を支えている(大乗)仏教という豊穣なストーリーなのだ。それがさらなる要素や縁と結びついては人の病も治し、富も生む。かように、ものがたりの力は恐ろしい。

五来重は続ける:

「仏教文学の主役をなす聖・優婆塞にも所依の経典がなくはなかったのであるが、それは誤解と曲解だらけであった。しかし、その誤解は庶民信仰化と日本化のための誤解であって、日本仏教そのものが、・・・(中略)・・・『誤解仏教』なのである。」

ハハハハハ、『誤解仏教』とはまさに慧眼じゃ。当時の民衆は、仏典はもちろん文字など読めない。衆生を結縁するには、『良心的誤解』は不可避だったのである。またそれは、中世を貫く極めて良質な時代精神の発露であると考えることもできるのではなかろうか。これこそ、仏教でいわれる方便ぞ!

月蓋さんはこの文脈で日本の有名人になった。月蓋さん、根来寺では脇侍で善財童子と対になっている。善財童子は、大乗仏教の求道者で、『華厳経』では文殊に悟りの道を聞いたところ、53人の善知識(仏教の悟りを体現する者たち)に会うように言われ、老若男女貴賤問わずあたり、悟りにいたった人物である。後日に調べると、この2対の仏の配置はそれほど珍しくなかった。南禅寺、東福寺、妙心寺と名だたる大寺にこの配置で仏がまつられている。しかもそれはすべて本堂でなく、山門(もしくは三門という)にあるのだ。

なぜに山門…!?これは強烈ないわれがあるのだろうとあたってみたが、案外苦戦した。電話までかけて訊ねた親切な民博(国立民族学博物館@大阪府吹田市)の方は参考文献を提示してくれたが、イマイチピンと来ない。(でも、ありがとう宮地さん!)南禅寺では、月蓋長者と善財童子と羅漢たちといった修行者のもとに仏陀が舞い降りるという劇的な構図を再現しようとしている、という。察するに、彼らは在家の求道者である。そして、禅宗系の寺の三門(一般には公開されにくい)にあることを考えると、こっそりと僧侶向けにまつられたのが、2人の求道者としての仏像であったのでなかろうか?

謎が謎を呼ぶ月蓋さんであるが、善光寺の白蓮坊の住職に面白い話をしていただいた。月蓋さんと娘の如是姫は現在甲府の甲斐善光寺におられるという。如是姫までが仏になったのは、善光寺仏が最初にお救いしたのが彼女だったからである。それゆえ、善光寺が女人信仰の寺としても参拝客を集めている。本尊は信濃に戻ったが、親子の仏は仲良く甲府に暮らしているのである。いい話やなぁ。

…さてさてさて。

根来はするりと逃げていく。2人がこれらの話に熱中していると、バス停を通り過ぎてしまい、空っ風吹く荒涼たる田舎の幹線を歩く羽目になる。それから、我らの愛する「名前も知らん地元のスーパー」にて、まさに地獄で道連れとなる食い物を仕込み、再び歩き始める。

遠い昔、境内は広かったのであろう。今では、前述の三門の周りは住宅である。やはりここの人間はわれらをいぶかがっている。僧侶がお出迎え、でもやっこさん戦闘体制である。

根来は僧兵のメッカである。その力は戦国武将もビビらせた。僧兵とは中世から寺領を守るため僧侶が武装化したり、それが力を持ち郎党までも取り入れ、強大化したものである。中でも名前を轟かせたのが、根来衆。何より、彼らは戦国大名をも屈服させるものを有していた。鉄砲である。かの信長が三好三人衆を攻めたときも彼らは参戦した。その数、8千とも3万ともいわれる。

ルイス=フロストは『日本史』のなかでこう語る:

「彼らの本務は不断の軍事訓練にいそしむことであり、集団の規則は、毎日一本の矢を作ることを命じ多く作った者ほど功徳者とみなされた。」

ごっつ恐ろしい集団である。人殺しが、功徳ときているので怖いもの知らずでございましょう。

「日本の武将や諸侯は、互いに交戦する際、ゲルマン人のようにこれら僧侶を傭兵として金で雇って戦わせた。彼らは軍事にはきわめて熟練しており、とりわけ鉄砲と弓矢にかけては、日頃不断の訓練を重ねていた。」

石山合戦では、本願寺の門徒である雑賀衆と結び、あの信長を手こずらせたという。そして、後の小牧・長久手の戦いでは、徳川家康・織田信雄の方について秀吉の怒りを買った。そして、信長の比叡山のような運命をたどる。世に言う根来の焼き討ちである。

ただし、この焼き討ちには他にも説がある。この時分の秀吉は向かうところ敵なしである。もちろんそんなこと、根来衆は百も承知で、秀吉が寺に入ったときはほとんど無血開城に近かったという。そこにはただ、老僧らのみであった。火をかけたのは秀吉か?これは、秀吉が寺の宝を持ち帰るのを恐れた郎党が、火を放ち火事場泥棒したのではという話である。実際、秀吉もその炎で自らの宿舎を焼くこととなった。それが事実であれば、この焼き討ちという言葉の捏造には根来寺の怨念がこもっているのかもしれない。

根来寺の入り口に立つと、『真言宗』の大きな石碑が立つ。しかし、よく見てほしい。『新義真言宗』とあるのだ。空海が開いた真言宗とはチト違う。その総本山がこの根来寺なのだ。

ここで、忘れてはならない男が登場する。かの覚鑁上人である。肥前の国から出て、仁和寺で出家、広沢流の師資相承を受け、後に小野流といった空海以後多数の流派に分かれた真言の教えを再統合した弘法大師以来の傑物である。

覚鑁はまさに「地獄」の中にいた。戦や飢饉が続き、民は疲弊し、末法の世が来てもさらに世の中は混沌としている。民を救うべき僧侶は、興福寺や延暦寺で強訴を繰り返し、仏法尽きたの観があった。そんな文殊菩薩に見捨てられたこの世に現れたのが、覚鑁であった。

空海に開かれた真言宗は、密教といった性格上、簡単に教えを伝えることができなかった。どういうことかというと、密教は師匠と弟子が全身全霊を賭けて教え伝えてもらうもので、それゆえに広く普及せず、またやっかいなことにそれゆえに多くの流派を生んだのだ。(皆が同じ教えを受けているわけでないため。)そんな中、覚鑁は精進を続け、京の仁和寺や南都の興福寺で大乗仏教の基本をわが身に叩き込んだ。

当時、市井には念仏聖があふれ、堕落した寺院の僧侶に代わり、衆生を導いていた。彼らは、難解な教えを説くでなく、「念仏を唱えると極楽浄土に生まれ変わることができる」と唱えていた。覚鑁は精進の傍ら、このムーブメントを鋭く感じ取っていた。彼はただの役人坊主ではなかったのである。

万感の想いで空海が密教修養の地とした高野山に至った。しかし、高野山はかつての勢いはなく、その権威を東寺や比叡山に譲っていた。高野山の再興、これは田舎から出てきた坊主の一世一代の野心となる。「清らかなる野心」である。そこで彼は修行三昧の日々を送る。虚空蔵菩薩真言を100万回唱えるという荒行を覚鑁は9回も成功させている。これは、経典を暗記するために行われる秘法で、空海も室戸岬でこの法を体得している。正直申し上げてやりすぎ。でもそれも密教の魅力のひとつ。学識では、高野で彼にかなう者はいなかったはずである。

全てはひとつの信念のもとにあった。高野の山に再び伝法会を復興すること。これは空海の時代盛んに行われていたもので、学問を研究しあう討論会である。これにより、覚鑁は権力闘争などに堕した高野の復権を考えていたのだ。ただし、この法会を行うにも金が必要であった。いつの時代もそうなのですな。

そんな折、根来の地を寄進するものが現れた。覚鑁はやり手の経営者でもあった。当時の農民は明け暮れる戦で土地を安堵してくれる保護者に飢えていた。当初、覚鑁は抵抗勢力にあって、思うように土地開発が進まなかった。しかし、師匠から鳥羽上皇に近づける機会を得た。これを機に、鳥羽院のご領地ということで、土地を開拓させた。そう。バックが天皇家である。しかも、税金も安いときている。結果として、覚鑁に土地を寄進するものが増えた。そして、念願の伝法院建立に到る。

覚鑁はここでも抜かりがない。京都に上ると、スポンサー探しに奔走した。この動きは、実に空海に酷似しているとは思わないだろうか?ただの学問僧でないのだ。かなりの野心家である。そして、大伝法院、密厳院までも落成し、伝法院の座主となった。(伝法院201名、密厳院37名の人事権を持つ)

まだ終わらない。彼はここでも改革を断行する。年功序列にとらわれず、能力のあるものを役職に取り立てた。無能な内勤職より、世俗にまみれてきた聖などの実力者を重用しようとしたのである。宗教における「実力主義」である。これには、従来の高野の連中も堪忍袋の緒が切れた。「ええ気になるんちゃうぞ!覚鑁のベンチャー野郎がぁ!」武闘派僧侶達は「覚鑁暗殺辞さず」の決意、一山騒然となった。この件は、一応の解決を見、鳥羽院より伝法院座主は金剛峰寺座主(高野山のトップ)を兼ねるとの院宣を受けた。彼は伝法院と金剛峰寺の座主を兼務し、それはさらなる対立をはらむことになった。

「ぐだぐだとじゃかましいんじゃ!仏を向けや、ごるあ!」

そして覚鑁はホントに黙ってしまった。両座主職をすんなりと兄弟子に譲ると、密厳院で無言の行に入る。その日数、実に1446日!4年以上やで、ちょっとあんさん。あまりの静けさに、一時は「ほんまに死んだんちゃう?」といわれるほどの徹底ぶり。その間、ただ黙っていただけではない。かの有名な「密厳院発露懺悔文」を書かれたのだ。「これはまじで泣けるで…」とは円瓢の弁。

この中で、彼は僧侶の堕落ぶりを一身に受けようと誓いを立てた。数々の悪行を列記して、

我れ皆相代って尽く懺悔したてまつる
更に亦其の報を受け令め給わざれ

どうよ、この潔さ!そして、この灼熱の想い!彼は二つの思いに身を裂かれていたに違いない。一つは思慕する空海の唱える即身成仏、覚鑁の修行に対する情熱は、虚空蔵菩薩求聞持法や月輪観、阿字観を盛んに行っているところからも見て取れる。純粋すぎるほどの空海への想いがそこにある。二つ目に、堕落した僧侶を含めた衆生を救う大乗的発心がある。それは、懺悔文が如実に語っている。

この二つの想いが、真言密教の再統合、さらに密教と浄土往生とを結合させる実にユニークな思想を生んだのだ!
密教では即身成仏のため、三密を修することが求められる。三密とは、印を組む身密、真言を唱える口密、そして大日と一体であるということを観想する意密である。当然、覚鑁はこの三密を行っていた。しかし、これでは衆生は密厳浄土に辿り着けない。そこで、彼は一密の取得が三密となり、成仏できるとした。(ただし、これには大日如来への深い信心が必要と説く)また、極楽浄土の阿弥陀如来と大日如来が一体であることを説いた。

高野の旧弊に固執するうるさ方は、またしても皆さま卒倒されたことであろう。しかし、何より高野山のことを考えていたのは覚鑁である。聖が伝える浄土世界が仏教的終着点として受容されるなか、それの否定は真言宗の衰退を意味する。それを覚鑁は防ぎとめようとしていたのだ。

「やるやん、覚ちゃんも。」ひとりほくそえんだのは空海のみか。これにより、空海の教えは命脈を保ち、その流れは大河となり、鎌倉新仏教を生み出すのである。それは、次の事象により明らかである。新仏教運動の先達となる日蓮は、この教えを収めた覚鑁の『五輪九字明秘密釈』を写しているのだ!

貴族仏教と堕した教えを易行化したのは、鎌倉仏教ではない、と私・空石は思っている。それは、単に流れに乗っただけなのだ。自らを追込み、大乗的菩提心でもって、仏教を民衆に手渡したのは他ならぬ覚鑁その人なのではないだろうか。

その後、彼の必死の努力にも関わらず、高野山の対立は激化し、彼は山内の平和のため下山し、根来の地に住を定める。そして、修禅と著作の中、印を組んだまま、遷化された。1143年、行年49歳であった。南無興教大師。

彼の不動の精神を表すエピソードが、売店に置かれていたの『興教さまのおはなし』にある。絵本だと思って子供に読み聞かせるのは禁物(特に夜)かと感じるほど、いぶし銀なアイテムだ。そこにある逸話に、覚鑁に憎悪の念を抱く僧侶達が密厳院を襲ったときのことが書かれている。そこには2体の不動明王が鎮座していた。

「覚鑁め、狸の法で我々をおちょくってるんやろう!どれ、両方の不動に鏃をお見舞いしたれ!!」

ブチュッー!!な、なんと両方の不動から鮮血が滴り落ちた!何じゃこりゃ―、松田優作もビックリだ。

「どないなっとるねん。こんな奴相手にしてたら呪われるぞ。退散じゃ!」

兇徒はそっこーで逃げ去った。覚鑁をお守りしたこの像が、今も根来寺にある錐揉不動である。

境内はいたって静かである。池には鯉が退屈そうに泳ぎ、聖天堂には、阿字観の掛け軸がのらりと掛かっている。覚鑁が求めて手に入らなかった境地・・・。いい寺である。そして、ここで我らは重大なことに気づいた。

国宝、重文クラスの建物や仏像に、実に安易に近づけるのだ!京都などの著名寺であれば、有無を言わさず「Police Keep Out」みたいな「これ以上近づくなや、おんどれ!札」が散乱しているところが、ひとつもないのだ!国宝建築の中には巨大な仏が鎮座されその前にきらびやかな法具が安置されているのだが、その聖なるものたちと我らとをさえぎるロープも何もない。むろん、上空に監視カメラは設置されているが、威圧感は何もない。歓喜した円瓢は持参していた五鈷杵を仏の前のでかいのに重ね、数珠をすりながらブツブツ唱えていた。何かをコピーしているのか?私・空石も、瞑目されている仏にずずいっと近づき、丹念に拝ませて頂いた。

この開けっぴろげにすら思える「openness/オープンさ」に、我らMONK衆は、伝統的な(古儀)真言宗に対して反骨の精神で臨み、現世のニーズを吸収してより高い位置で再統合を図った真義真言宗、そして覚鑁上人のベンチャー精神を垣間見た気がした。今風に言えば「大企業からスピンアウトしたベンチャー企業が持つオープンさとしなやかさ」といったところか。分かりやすく言えば、東芝から離れ独立した超優良ベンチャー企業、ザインエレクトロニクスのようなものか。よけい分からんくなったかも知れない。

そんなことを思っていると、「以前と同じことやってお高く留まってたらあかん。俺らは進取の反骨ベンチャーや。オープンさとお客さんへの近さが身上ちゃうんか。」という優しい覚鑁の声が聞こえた気がした。

寺のお坊さんをつかまえて話してみた。「新義真言宗は関東に多いんです。かくいう私も元々ここの人間ではなく、京都の知積院から来ています。」

へえ、そうなのか。智積院も新義真言宗なんだ。と思い帰って調べてみると、真言宗智山派?なんやそれ。

この由来は秀吉の根来攻めにある。根来攻めにあたり、僧侶の多くは高野山に逃れた。ある一派は、観音信仰で著名な長谷寺に移り、豊山派を起こした。そして、玄宥は京都に移り、徳川氏の庇護を受けた。智積院となるその地は、皮肉にも秀吉をまつった豊国神社の社領であった。その後、智積院は根来寺に代わり学問の寺として発展を遂げていく。

因果な寺である。高野の荒廃を嘆いて作られた根来寺は、自らの高慢さで地に落ちてしまったのだ。

美しすぎる国宝の大塔は、40メートルの高さを誇り、多宝塔としては最大である。大塔は無邪気に両手を広げる。その身体には、根来攻めの時の弾痕が蠢いている。その手触りに心が痛む。冬の葉が枯れた音を奏でる。覚鑁の修行を妨げるものは、今はない。

さて、根来寺に懈怠な坊さんがいる。これも円瓢が教えてくれた。ネットで探したので訪れようということらしい。この坊さんの名前は、牧宥恵である。癒しの仏画を書いている僧侶である。過ぎてしまいそうな可愛いアトリエには、犬とネコが飼われていた。実に興味深い首紐にゆわえられたワンコは、珍客の出現に狂喜乱舞していた。

「ごめんくださーい」と挨拶をして二人で中に入る。だだっぴろいフローリングに牧は腰掛けていた。おばさんがカレンダーの発送をしている。

「おう!兄ちゃんら、どっからきたんや?」

威勢はいいが、どすの効いたダミ声である。「小柄な(落語家の)つるべ」といった感じの坊さんが手招きする。

「茶も出えへんかったて、言われとうないからな。」

しぶい囲炉裏がこさえてあり、その傍で意外に丁重にお茶を振舞ってくれた。BGMはジャズである。壁にはギッシリとCDが並ぶ。

「ジャズが好きでな。ジャズはでたらめに聞こえても、でたらめに演ってるわけやない。『スイング』ちゅうてもよ、ただ揺れているのとのは大違いやで。『自分から揺れてる』のや。根本ははずしていないわ…」

まさに、大乗の教えそのものやんけ。我らは感動した。顔に似合わず、温かみのある優しい仏画を描く彼の一端がわかった気がした。

「ほんまの『本業』ではな、、こんなん描いてるんやで。」

見せてくれたのは、「細密画」と呼ばれる劇画系の仏画、こっちのイメージのほうが彼に合う。

「こっちの絵のほうがええかも。『癒し系』なんて最近よう言われてるけど、何に疲れてる言うねん。これからは、『激し系』やで。」

なぞと馬鹿なことをぶっていると、彼は高笑いして云う。

「これは、方便じゃ。経を上げるのもよし。わしは絵を書いて仏道を広めていくんや。」

これはなかなかの人物や。2人は顔を見合わせた。また来ることを約束してアトリエを後にした。(そして1年半後、「モラ観音さま(「まんぼう観音」さま?)」を描いてもらうことになるのだ。)小冊子にはこうある。

「やはり仏教はいい」

道草が過ぎた感があったが、これも方便、善財童子の気分で善智識を駆け巡ろう。根来寺を東に行くと、山越えで大阪に入る。「理論上」では。

どんどんどんどん。ひたすら歩いた。いい思いばかりしていては修行にならん。かと言っても、お気楽な求道心は忘れずに、我々は道を進んだ。目的地を告げると、30分ぐらいで直ぐ着くよ、と優しく答えてくれる。みかんを手にして我々は付け加える。「歩きなんですけど・・・」皆、固まっていた。絶句。冗談と思われたのか、誰も「止めといた方がええ」とは言ってくれなかった。

道といっても幹線道路だ。時折、猛スピードのトラックが粉塵を舞い上げ、果てしなく続く殺風景は歩みをさらに遅らせる。無人のみかん販売所がところどころにある。が、無人かと油断すると、ひっそりとおばばが影のように番をしていたりする。あなどれん町である。しかし、バス停はない。

この山を越えると、というところまで来た。その時、バスも来た。待ち合わせのじじいは、われわれの行脚を狂気の沙汰といわんばかり。はじめて「中止勧告」が我々に出された。「ローカルの人の忠告は聞いておいた方がええかもな。」そう思って、泣く泣く、バスに身体をあずけた。

果たしてじいさんの言う通りであった。バスは山道を何度もローリングして、目的地に着いた。これは、徒歩であれば確実に死んでいる
。21世紀も追いはぎが出そうな深い山に、我々は錐揉不動尊のお慈悲を感じた。そして犬鳴山温泉、「大阪の奥座敷」と言われる。陽の落ちかかった温泉郷は、ひなびた印象を醸しており、明治文学の舞台をイメージさせた。

ここでは、修験道ゆかりの寺、七宝龍滝寺に参った。乱雑に置かれた数々の不動明王にメンチをくらいながら、「絶対に何か出てるのやけど幸い俺らは見えないからさ!」という物凄い険しい岩山を、よりにもよって暗闇の中上っていく。頂上の寺では店じまいをしていた坊さんたちに「げっ!?」という顔をされた。だが、ゆるりと時間を使って瀧でも心経を唱えさせてもらう。

そして下山。ふもとの旅館の温泉で「外湯」をさせてもらう。狭い湯船で、われわれの日本仏教への野望を、湯の温度も加わって、熱く、それはそれは熱く、上せるほどに語り合った。今から思えば、あれが「MONK戦略会議」の正式な第1回だったのかも知れない。

思えば、覚鑁という田舎坊主が野心的な菩提心をもって、高野山はおろか日本の仏教会に革命を起こそうとした。われわれが住する日本もどやいうねん。リストラ、ストーカー、引きこもり、衝動的殺人と、いわば世は末法。根拠なき安心感が、鋭敏な感性の持ち主を苛立たせる。

「宗教」が必要なのではない。「宗教心」が必要なのだ。「殺すなかれ」など、当たり前すぎるほどの皮膚感覚。それが酸性雨で剥がれ落ちているのではないだろうか。いま必要なのは、覚鑁のように、研ぎ澄まされた感性をもって、濁世を見つめ、積極的にそれを受容し、変容させていくダルマの法輪である。このわれらも懺悔し奉らせていただきます、覚鑁さま!われらも確信犯的仏教ルネサンスの風を、日本全土に吹き込みますぜ!!MONK衆2人は、全裸で露天風呂を行ったり来たりしながら、固く誓った。

そして1時間に1本しかないバスで下山。南海電鉄の泉佐野駅につく。場違いにどでかい駅の理由は、関空行きがここで連結されているから。我らの住処、大阪に急行は急ぐ。終点の難波駅まで、相変わらず興奮しながら二人で話す。地獄巡りの旅において、休息などないかと言わんばかりに。

大阪ミナミの夜は、「29日」で「にくの日」らしく、諸仏諸菩薩そして犠牲となった生き物に手を合わせて、「半額セール」の焼肉をたらふく食べる。それから空石の提案で、心斎橋・三津寺会館の場末のバーで過ごした。その名もVows' Barまたは坊主バー。このバーが織り成す出会いについてはまた書かねばならんだろう。

「極楽浄土」というとんでもない名前のカクテルをのどに滑り込ませ、一時の恍惚に身をゆだねる・・・。変な常連のおやじに絡まれたので、これも縁と覚悟してつきあい、最後にはこちらの酒代を全額おごらせた。我らもナニワのアキンドでっせ。油断したらあかんよ。和歌山から来ていたおもろいお兄さんやバーテンの濃い女子大生らと哲学や生老病死を語っていると、とうの昔に終電は終わっていた。バーテンの勧めで、中2階にあるこたつに入り、皆でごろんと寝る。朝6時の電車で空石は西宮に、円瓢は江坂に帰る。

今年も面白かった。

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