不退のダンス(2015年8月・岐阜県郡上市・大乗寺)

郡上には、1度行ってみたかった。
なぜって?
聞くも野暮よ。郡上踊りを見るためゾ!
なにがスゴイって、この踊りは7月11日からはじまって、
9月5日まで約2カ月もの長きにわたり、行われておる。
お盆の8月13日から16日はクライマックス!
徹夜踊りでは、夜の8時から朝の4時ごろまで踊り倒す。
まさにサバイバルダンス!
踊る阿呆の阿波踊りもあきれかえる狂気が、郡上で渦巻くのだ。

それでもって、13日の徹夜踊りに乗り込んだ!

この踊りは実に楽しい。
昔風情あふれるまちの一角に、櫓が組まれ、
ピーヒャラと、太鼓や歌い手が音楽を奏でる。

pic guzyou1

それに合わせて、老いも若きも、県外旅行客も外国人観光客も踊り出す。
狭い通りで行われるものだから、見物人は両脇の建物に追いやられ、
物の怪に憑かれたようなボンダンサーが、通りを占拠する。
写真を撮っていると、
「邪魔や! どけ!」とばかり、衣装をそろえた粋な浴衣衆にどやされる。

pic guzyou3

雨が降ってもお構いなし。
着物が濡れても、汗と変わらんとばかりに、踊る、踊る。
頭に装着する笠を着て、一心不乱に踊る準備ものもおる。
郡上踊りは、見るのではなく、参加するもの。
体が勝手に吸い込まれ、気が付けば、踊っていた。
麻薬のような臭を放ち、見るものをすべて取り込んでゆく。
こんな恍惚感あふれる2カ月が、蒸し暑さが残る郡上で続くのだ。

pic guzyou2

郡上踊りの紹介をいたしたが、主題をしばしお寺に移させていただく。
踊りの予習のため、郡上八幡博覧館を訪れた。
しかし、踊りの最終実演の時間に間に合わず…。
と思っていたら、そこに来たるは、タイからの観光客ご一行さま。
どこに行ってもいるんだね。外国人観光客は。
当然のごとく、彼らのために、名人のような着流しの方が出てきて、
懇切丁寧に実演してくれました。
われらもおこぼれに預かることができたわけ。
タイ人よ、おおきに!

郡上踊りは、中世の念仏踊りに端を発するとされる。
現在の形になったのは、江戸時代という。
藩主が領民の融合を図るため、踊りを奨励したことによるという。
「かわさき」や「春駒」など10曲が、メビウスの輪のように無限循環する。
曲の間に休みがある。あるにはある。というのも、それはわずか数十秒。
すぐに次の囃子が始まる。
地元の人に聞けば、朝4時まで踊った踊り隊は、死んだように眠り、
夕方にまたゾンビのごとくムックと起き上がり、また踊り始めるという。
すさまじいまでの〝踊り愛〟である。

その博覧館に、凌霜隊(りょうそうたい)を紹介するコーナーがあった。
初めて聞く御仁が多かろう。当方もそうでござった。

説明によれば、彼らは明治維新のときに編成された約40人郡上藩士という。ときは1868年、いわゆる明治元年である。


小藩・郡上藩主は悩んでいた。東上する官軍に味方すべきか、それとも江戸幕府の恩顧に応えるべく、官軍に抵抗する会津藩に組すべきか。


そこでとられた策が、妥協の産物であった。
国もとは官軍に従い、江戸在住の藩士の一群を会津に向かわせる。
二枚舌作戦である。
江戸で編成されたのが、凌霜隊であった。
戊辰戦争では、かの白虎隊とともによく戦った。
彼らは、会津藩により、しんがりをつとめさせられた。
当初、凌霜隊は栃木県の那須塩原に駐在していた。
しばらくは戦闘もなく、領民らと仲良く過ごしていたという。
このとき、郡上踊りも披露された。
しかし、牧歌的な光景が一変する。
会津藩の指令で、官軍を迎え撃つため、「会津若松に合流せよ」と。
さらに「官軍に食料などを残さぬために、まちを焼き払え」とも言い残した。
凌霜隊は悶絶した。

「お世話になった塩原のまちを焼くことはできない…」

だが、指令は絶対である。
村人に事情を説明し、泣く泣くまちに火を放ったという。
ただ、まちの菩提寺でもある妙雲寺だけは…。
そこで苦肉の策を実行に移す。
薪を焚いて、建物に火を放ったように見せかけた。
そして、念には念を入れた。
本堂の天井にあった菊のご紋に、バッテンを打っていったのだ。
つまり、官軍の象徴である天皇の家紋に墨を塗ることで、
焼き払ったと同じ措置であることを示した。

この英断により、妙雲寺は今にその姿をとどめる。
今でも、その痕跡は、天井に残されているという。
それでは、その後凌霜隊はどうなったのか?
戊辰戦争が終わり、生き残りの隊士約30人は郡上に戻された。
藩のために戦った彼らに着せられたのは、無上にも反逆者という汚名。
お国のために、命を投げ出した20歳前後の若者は、故郷で幽閉の身に。
ここで立ち上がったのが、さきの妙雲寺の住職ら。
臨済宗の本山である京都の妙心寺に働きかけ、
郡上の同じ臨済宗の慈恩寺を動かした。慈恩寺も、周辺の寺にもちかけ、
彼らはようやく幽閉の身から解かれた。
だが、新政府は彼らを雇用するわけにもいかず、
彼らの行く末は、恵まれたものではなかったという。
ただ、隊長であった朝比奈茂吉は、父親ゆかりの地である彦根にわたり、
彦根家老椋原家の養子になり、1889(明治22)年から近隣村の村長をとめたという。
墓は、故郷の郡上になく、彦根市内の蓮花寺にある。
悲しい歴史でもある。

あるブログで凌霜隊と塩原が、ときをへて、つながったことを知った。
有志により、郡上踊りが、那須塩原で披露されたという。
心優しき凌霜隊のDNAが、塩原で息を吹き返した。

郡上は町歩きが楽しい。
中心地を外れると、小駄良川という小川沿いに、大乗寺がある。
山に守られるように、立派な山門がそびえる。

pic guzyou4

日蓮宗のお寺ということで、鬼子母神も祀られている。
「鬼」の字は、頭の〝角〟が取られている。
東京雑司ヶ谷の鬼子母神と同じである。
ここの見どころは、帰り道にある。
山門越しに少し目をこらすと…。

 pic guzyou5

司馬遼太郎も「日本一美しい山城」と絶賛した郡上八幡城が、白く輝く。

さらに、郡上踊りでもう1つ。
こんな言い伝えがあるという。
太平洋戦争中、全国の盆踊りは「不謹慎なもの」として、
禁止されたものが多かったが、郡上踊りだけは、一晩に限り、許可されていた。
そして、1945年に玉音放送により、終戦を迎える。
さすがに、この年だけは、自粛が促された。
しかし、郡上の血が黙っていなかった。
自然発生的に、有志により、踊りが行われたという。
東大寺のお水取りを「不退の法」と呼びならわすならば、
まさに郡上踊りは、「不退のダンス」といえる。

大乗寺
    岐阜県郡上市八幡町向山389
  長良川鉄道・郡上八幡駅から徒歩約20分
   電話0575-65-3439

まだ行ったことはないが…


妙雲寺
 栃木県那須塩原市塩原665
 電話0287-32-2313

Joomla templates by a4joomla
Copyright 2000-2016. MONK Forum. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.