善光寺に引かれて、岐阜参り(2014年5月・岐阜市・岐阜善光寺)

 前回のお話は、長野の善光寺のものだが、今回は岐阜の善光寺のお話です。GWの岐阜は実にのどかです。さらにもって、観光客もまばらで静けささえ漂います。ほどよく心地いい。岐阜はそんなところです。

 御本家の善光寺では、怪人に会った話をしました。

 (善光寺の怪(2014年4月)

 そこでこんなことも話したんです。

 「善光寺仏は信長にも持っていかれたことがありますよね?」

 「ん? それは聞かない話だな」

 オレンジカッパの怪人が少し首をかしげたので、私も不安になった。そんなこんなで、頭の片隅に善光寺のことがあったときに、たまたま名古屋の岐阜県事務所に行く機会があった。観光パンフがどっさり置いていて、たまに地元グルメの販売をやっている出先機関である。そこに目に付くチラシがあったのです。さっき言っていた岐阜の善光寺です!

 お寺の割には、意外にキャッチーにデザインされていたチラシには、これまたピンポイントな説明文が添えられていた。それによると、信玄公が善光寺仏を甲府に持ち帰って、新善光寺をつくり、信玄没後、1582年に織田信長が岐阜の地に、善光寺仏を迎えたとあるのです。

 「これのことよ! 見知ったか、長野の怪人よ!」

のどまで出かけた雄叫びをこらえた。信長も本能寺の変で倒れると、仏像は豊臣秀吉に渡り、さらに徳川家康に。そして、巡り巡って、1598年に再び長野に帰還したのだそうです。名だたる戦国武将が、ブン取り合いをしたというわけです。さて、岐阜の善光寺に戻ります。信長の孫・秀信が本尊を迎えたゆかりの地に、同じ善光寺様式の本尊をつくり、ここにお寺を建立したというのが、始まりと言います。

 チラシにはポップな見出しで〝ご開帳〟とある。それが岐阜なる土地に足を踏み入れたる理由であったのです。

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だが、それにしても…。本堂にはそれらしき案内もない。それでは、隣にある真新しいお堂かな、と石段を上がったが、こちらも違うらしい。どうもご開帳をやってる風情がないのだ。本場善光寺ほど、注目されていないのかしら? 社務所で声をかけさせていただいた。住職とおぼしき方が、申し訳なさそうに出てきてくれた。

「ご開帳のチラシを見て来られた? よく見ていただくとわかるのですが…」

確かに『5月31日まで』とありますよ。まだやってますよね? だが、さらによく見ると…むむむ、やられた! 『平成27年』とあるではないか。来年のことでしたか。なんたるフライングであるか。

「少し気の早いチラシですみません」

和尚がおっしゃるように、気は少し早い。だが、それが責められるいわれはない。私の早合点というもの。善光寺に引かれて、岐阜参りということゾ。ちなみに、こちらが境内に張られていたそのポスターです。みなさま、くれぐれもご用心を!

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ちなみに、和尚さんが教えてくれたのだが、4月の桜のシーズンには、お寺までの参道がしばれ桜のストリートになって、すばらしいとのこと。見上げれば、信長が「天下布武」を宣言した岐阜城。ご開帳が見られなくても、足を運ぶ価値はありますゾ。

せっかく岐阜まで来たのだから、怒ってきびすを返す道理もあるまい。ということで、まちを散策した。前々から行きたいお寺があった。岐阜城がある金華山のふもとに、正法寺という黄檗宗のお寺がある。

 お堂の朱が少しすすけた感じがするが、そんなことはこの寺を訪問しない理由にはなるまい。何せ、あのお方がおられるのだ。もったいつけるが、入れば一発でわかる。

 バーン!

本殿に足を踏み入れると、いきなり圧倒される。大仏さまが見下ろしているのだ。ちょいと猫背で、前のめり。高さ13.7メートルというのは、奈良の大仏が14.7メートルというから、こちらは少しだけ小さい。だが、本家? がお堂でドカッとお座りになられているが、こちらは「今からいこか」という風情で、ヌッとわれわれの方にせり出している。迫ってくる感じが、すごみを増している。それと、指の組み方がいい。右手で大きく丸! とやっている。

「ようこそ、OK!」

盛りを過ぎてもバリバリやってるミック・ジャガーの微笑みにも似た優しさをたたえられているのだ。こりゃ、来てよかった。

正直、期待はしていなかったのです。先日、長野に行ったと書きましたが、そのとき善光寺の隣にある美術館も観てきた。裸の大将で有名な放浪画家・山下清の作品展をやっていた。これが実によかった。素直すぎる感性が、常識でがんじがらめになっているわれわれの感覚に問いかけてくる。彼は知恵遅れなどではあるまい。絵には思想が宿っていた。「人間ってつくづくバカなことをするものだ」って。戦争はその1つだった。そんな清の作品の中に、何と岐阜大仏の絵があった。正面ではなく、うしろから黒のサインペンで書かれたもの。作品に添えられた小文に惹かれた。

「なんで、みんなこの大仏をありがといと思うのかな。すると、隣のおばちゃんが、この大仏さんはお経が書かれた紙が貼られて作られているからだよ、って教えてくれた」

正確ではないが、そのような内容であった。確かにこの大仏は、竹で組まれ、そこから漆で固められ、経文などの紙を上から貼って、作られた。話はかみ合ってそうで、かみ合っていない。清は本音を言ってしまっている。それをおばちゃんは常識でたしなめる。「仏像はありがたい」という常識的な感性は果たして正しいのか? それは、兵隊に行くのが嫌で、逃走した清少年の原点にも似ていた。だから、正面から描かなかったのか。

清が首をかしげた大仏だが、実物はいい。間違いない。よこしまな考えを借りて言うと、東大寺の大仏より、願いを叶えてくれそうだ。人でごった返すイオンモールではなく、住宅街の一筋入ったところにあるよろず屋。値段は高いかもしれないが、じっくり話を聞いてくれるに違いない。

『日本三大仏』と入り口にはある。奈良と鎌倉の次ということだろう。まあ、何でもそうだが、三大なんとかの3つ目は、かなり激戦だ。私の家の近くにある名古屋大仏もエントリーしていそうだが、如何に。そんなグレートブッダに思いをはせていると、受付のご婦人が面白い話を教えてくれた。

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「大仏と言えば、知多にも大仏があるんですよ。山田さんという実業家が作られたんだけど、その方はここの裏で生まれたんですよ」

知多半島にも大仏? 茨城には牛久大仏という120メートルという信じられないものもあるくらいなので、そのたぐいのものは全国にあるのだろう。調べてみると、確かにありました。聚楽園大仏。愛知県東海市の聚楽園公園に鎮座しているという。高さは18メートルというから、奈良の大仏より大きい。ネットでさらに調べると、ご婦人の言われる通り、岐阜市生まれの山田才吉という実業家が作られたらしい。

この方は、日清・日露戦争のときに、缶詰製造で財をなした。それから当代一といわれた東陽館や南陽館という料理旅館を名古屋の中心地に建設。だが、不運なことに、これらの建物が火災で倒壊。それでもこの才吉さんは、くじけなかった。途方に暮れる間もなく、日本一の大仏建造を思いつく。戦争景気が収束し、財界も財布のひもが固くなる中、私財も惜しみなくつぎ込み、1927年に完成にこぎ着けた。才吉はその後も北陽館という旅館も建設している。ただ、今も残るのはこの大仏のみ…。

はて、知多の大仏さんはいかなる風情なのだろうか? だが、間違いなく、実業家の執念の源は、幼き日に仰ぎ見たであろうこの岐阜大仏にあったのだろう。

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