火が踊る~お水取り(続)(2011年3月・奈良市・東大寺)

よう、モラ坊空石!

修二会に行って来たとのこと!俺が嫁さん、および当時の仏教好きの仕事先と一緒に行ったのはもう7・8年前のことやったと思う。練行衆が振り回す火の塊は、真言密教の護摩を見慣れている俺にとっても中々に刺激的で、(東大寺にも関わらず)数珠を繰りながら一心に不動明王真言を唱えていたことを思い出す。(それを見た知人も呆然としていたが。)

それにしても、「山城の笠置山」とはこれまた来たな!何故か意外と我らに縁のある京都~奈良を結び、かつ滋賀を見渡すこの「shade」空間の地。あそこには、何か特殊なゲニウスロキがある。俺が関東から帰阪する際に、少ない日程をやりくりして向かう地獄先が最近あそこらに集中しているのも、縁なしではないやろう。惹かれるものがあるのやろうな。また地獄やろうぜ、周辺で。(参考: 空石による紀行文

実はちょうど数日前に、録画し貯めていたTV番組を見ているときに、このお水取りの様子が内側から覗かれていた番組があった。練行衆の前行も見させてもらったが、かなり特異な五体投地を行っていたな。その、自身の身体を懺悔行として打ち付ける荒々しさに、密教輸入の前に見られる日本的霊性の「ますらおぶり」を見た気がした。諸仏・諸菩薩へ「全身全霊で帰依します」と身体もろとも表明する五体投地は、我が「三叩頭」として毎朝行うものでもあるが、その静けさとはまた異なる。なんか、「ことごとく懺悔してもまだ残る業にまみれたこの身体、もう滅んでしまえや!」みたいな、苦行に見る荒々しさを感じ戦慄した。

お主が述べている「おどろおどろしい」という印象は、修二会に参加した俺も感じた。理路整然たる智で圧倒し、我らの心をゆすぶる慈悲の物語で抱擁し衆生を導く大乗仏教の切れ味とはまた異なる、「原初」の魂のようなものがあそこには残るな。神仏習合は我が国の得意技やが、それが東大寺開山当初から既に始まっており、しかも絶えていないという強い歴史が原因なのやろう。修験道ともまた異なる、「ええんか、こんなん『公式』で見せて?」という一種の後ろめたさすら感じる、秘密のかほりがするな。そこが魅力なのやと思うわ。あんだけ「公式・国家」で満ちていた奈良仏教の遺産なのに、俺らを土台から揺すぶる行事やと思う。

火を拝む点に注目し、その由来をゾロアスター教に求める推理は面白いな。それは全く考えもしていなかったわ。ただ、確かに密教以前の奈良時代(むろん、役行者のように非公式に密教修行する人々もおったが)、しかも公式も公式の東大寺において発した火を扱う祭りちゅうのは、「密教的な火(つまりは煩悩を焼き尽くす智慧の炎)」という冷厳さとはまた異なる、「雑密的・混交的な火(例えば、象徴ではなく火そのものを崇める視点)」を感じてはおった。故に、この推理もありえん話ではないな。

故にこそ、お主の総括感想である「仏教的な臭いがあまりしないところである」も合点する。「公式・国家仏教」にして、「非仏教的」。そこには、まだ仏教という教えを学び始めたビギナーであった我らの奈良の先祖たちが、ナイーブながらも発し、滲み出していた「前・仏教的な霊性」が、その後に京都をはじめとしてスポットライトが奈良から離れたからこそ残せることになった、時代の面白さが関与しているのかもな。

帰り道に恐らくお主も出会ったであろう、こちらを凝視する鹿の、幽玄と光る目は、そのおどろおどろしさの演出に一味買っていたことやろう。7年前の俺は帰り道にその光に、「どや、俺らのこの目の光は、1200年前に見た火をずっと継承しとんねんで」という鹿たちのどや顔と呟きを聞いた気がした。

ええレポートを多謝。合掌。

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